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<近世の始まり> 安土桃山時代 中世と名づけられた時代は、一向一揆の高陽で終わる。「一揆の時代」は戦国期の始め、1474年(文明6年) 北国加賀で蜂起した一向一揆が「百姓の持ちたる国」と名乗り解放自治区を作り上げた。 次にその一向宗は戦国期の終わりに、石山本願寺の念仏教団となって、織田信長と真っ向から対決した。いわゆる「石山戦争」を二つのピークとして約百年を超え、ほとんど戦国期の全体に及んだ。戦国時代といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などのようなスーパーヒーローが天下統一の形で権力を持っただけではなく、各地方に豪傑英雄が続々と輩出した時代でもあった。薩摩の島津義久・豊後の大友宗麟・土佐の長宗我部元親・出雲の尼子経久と山中鹿之介・安芸の毛利元就・信濃の竹田信玄・越後の上杉謙信・陸奥の伊達政宗など群雄割拠して国取りの合戦を繰り返した。 この戦乱は単に軍と軍の戦闘でなく、その“くに”の民衆をも巻き込んで、それが全国規模で、しかも百数十年にもわたって続いた。 合戦の時代は、伝統的な政治体制と、それまでの古い社会秩序を破壊し、新しい体制・秩序を生み出した転換期でもあった。この転換は一般的には《中世荘園制》から《近世幕藩制》への転換といわれているが、もっと緻密にいえば、村(邑)や町を基盤とした社会体制を生み出したとも言えよう。 それまで中央集権によって上から秩序づけられていた中世政治国家が崩壊して領主と家臣の主従関係で成り立つようになった。そして社会の下部から形成された惣村・惣郷・惣国という共同体が生まれたのである。それが幕藩体制への移行とともに、「家」という単位になってくる。ところが、さらに個人を意識する一向宗の一揆の場合は家よりも、“阿弥陀仏とわれ”の二人称を存在基盤とした社会意識に結ばれて、闘うエネルギーを内包して“おくに”意識の萌芽が始まったといえるだろう。 蓮如は、「一紙半銭なりとも仏法領のものなり」といい、本願寺門首 顕如は「門徒はみな開山(親鸞)の門徒」といって現実の武装権力の主従関係を断った。 知行と主従から解放された門徒はヨコ型の「御同朋御同行」の関係をつくった。これが戦闘的なエネルギーの源泉になったわけである。そこでは戦国大名が「領国」としたこととは全く質の違う「仏法領」の世界観であった。 信長と諸国の武将領主たちが意識した国取りの戦さに対し、十六世紀後半にいよいよ高潮した本願寺第十一世顕如(けんにょ)の大阪石山の一揆は、東海・近畿・北陸を主戦場とした。 さらに全国一向宗の点と点を結んで重層的構造を形成した集団は信長の行く手をさえぎり、統一国家への道に逆らってねばり強い、不服従の戦いをくり広げた。 ルイス・フロイスによれば、その闘争に加わった階層は殆どが農民と中世賎民であったという。
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