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【寺社破壊事件】

  大村純忠は家臣20〜30人の家臣を引き連れて、横瀬浦に滞在していたコスメ・デ・トーレス(イエズス会九州管区長)を5回たづね、通訳を通じて純忠の信仰の内容、そのおかれている立場など微細に話し合ったうえでトーレスの説教が行われ、そして永禄6年(1563年)5月末にキリシタンとしての洗礼をうけ、ドン・バルトメロウという洗礼名が与えられた。
大友宗麟に先立つこと13年、島原の有馬晴信に17年さきがけての九州のキリシタン三大名の最初の受洗者となった。
 純忠はその後、キリスト教の布教に障害となる大村領内の社寺の一掃を考えてはいたが、慎重であった。
僧侶たちの中には身分が高く、大村家とも婚姻関係になる者もいた。
すぐに実行したならば民衆を引き連れての暴動が起こることを懸念していたからである。
しかし大村に駐在していたガスパル・コエリヨは次のように迫っている。「殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はそのように努め、領内にはもはや一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。(中略)殿はさっそく家臣を挙げての改宗運動を開始すべきである。」
さらにコエリヨは「大村全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらをすべて破壊することは容易にできることではなかった」(ルイス・フロイス『日本史』第1部104章)
 キリスト教の布教に邪魔になる寺院・神社の施設、仏像・経典などはパードレにとっては低次元の劣等な土俗信仰であり、「偶像崇拝」にしか映らなっかったようだ。
これらを破壊してしまおうといういとは、このコエリヨの言に明らかだったようだ。
全領民を改宗し、社寺破壊の旨が純忠に繰り返し進言されていた。そして天正2年(1574)旧暦10月18日(11月1日)に純忠、コエリヨ会談でついにそれが着手されることになった。
大村『郷村記』に記録されている社寺の殆どが天正2年に「耶蘇ノ蜂起ニヨテ焼ル」という記録があって、大村周辺12カ村に限っても仏教寺院34カ寺、神社18になる。
 フロイスは「司祭が寺を焼け、偶像を壊せと彼らに言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出るとまっしぐらにその下手にある寺院に行った。そしてその寺は彼らによってさっそく破壊され、何ひとつ残されず、おのおのは寺院の建物から自分が必要とした材木を自宅に運んだ。」(同上)さらにフロイスは寺院破壊を「今まで日本にいた間のもっとも大いなる楽しみを味わった」(1582年ミゲル・ヴァス書簡)と云っている。
 この天正二年には仏教を一掃し、全領民にキリスト教への入信を強制し、従わない者は領外に追放を断行した。
フロイスはこの時の人数を40,000人と記録している。
その後、さらに焼き打ちは広がって行った。これだけの寺社を一気に破壊し、焼き打ち行動を行ったキリスト教の布教は何であったか。そしてまたそれだけの破壊を許すまでに至った当時の仏教はどうなっていたのか。
破却されたのは真言宗、天台宗、臨済宗などが主であったようである。
ただ、蓮如によって教化された一向宗は、まだ肥前の国には入ってなかった。
 さらにフロイスによれば「全領民の中で最も抵抗したのは、自らの寺院を焼き払われた仏僧たちであった。」「最も厄介だった仏僧たちは、いわゆる七山の僧で、七山とは彼の領の群付近にある七山のことである」「仏僧たちの数は百人あまりあったが」『日本史』。などと記録している。
 天正六年(一五七八)コエリヨに替わって大村に駐在した宣教師ルセナは「彼らはキリシタンの諸事については、ただ洗礼を受けるのに必要なこと以外は何も知らなかった。その時まで大村にいたパードレは、その土地の言葉を知らなかったので、告解や聖体の祕跡を授けなかったし、その当時は洗礼を受けるのに必要な教理説教によって教育するのみで、救霊に必要なそれ以上のことは教えなかった。
そのころ告解したものは通訳を介してしたのであって、わたしも大村における最初の一年間は言葉を知らなかった。」と。
45万人という民衆のほとんどが言葉の通じない少数のパードレに頼ったのであるから、キリスト教の何であるかを全く知らず、それに仏教といってもあまり深い教化は出来ていなくて僧侶集団のものであったのではないか。
病気平癒、五穀豊饒の祈願祈祷程度の共同体信仰のようなもので、洗礼を受けるといっても内容にさほどの関心を示すこともなく、単に表面上の改宗ということに外ならなかったということか。しかも洗礼後の純忠さえも伊勢神宮の大麻を受けたり、政策上の大切なことについては真言宗の僧、阿金を侍として万事相談していたというのであるから、随分鷹揚なことであったと思われる。
 それにしても『フロイスの日本覚書』(ルイス・フロイス著)によれば、仏教僧侶へのフロイスの印象は嘲笑的表現が多分にあり、侮蔑、軽蔑、皮肉に満ちている。
このようなことから当時のキリスト教の日本における活動を、宣教という名の植民地政策に乗じた覇権主義であったと読み取ることができる。
 フランシスコ・ザヴィエルは当時の日本人を鹿児島から発信した書簡に次のように書いている。
「第一にこの国民は、私が今日まで交際した限りにおいて、すべて従来発見された国民のうち、最良のものであり、異教の国民の中において日本人に比べ得るものがあるとは考えられない。」
この「発見された」という言葉は、いかにもキリスト教至上主義であり、日本人の能力は褒めてはいるものの、その内面は教権主義である。
パードレたちの心底にある心情が侮蔑、軽蔑であり、言葉の表現が皮肉に満ちているということは一体何であったか。
大航海の船に乗って命懸けでパードレ達がおこなったキリスト教伝導は日本の当時の宗教社会にとってどんな意味を持ったのか。
ローマではその東洋伝導について「神の福音か植民地政策か」の聖と俗の大論争があっていたというが。
 いずれにしても日本人の与り知らない所で、日本はデカルマシオン(異教世界二分割論)によって、ローマ法皇の布教保護権内にはいってしまっていたのである。

秀吉の禁教令から始まる切支丹迫害が苛酷な有り様であったことは宣教師たちが作った膨大な報告書によれば、《殉教》である。
その有り様は“美しき殉教史”として記録され、語り継がれている。
 それらの資料によれば、野蛮な日本人の蛮行であって、日本の恥部として今に伝えられているといえるであろう。
しかし、なぜあゝまでして苛酷な迫害を加えねばならなかったか。教会に保存されている資料の読み方が近年問題にされてきた。
歴史は資料を厳密に読み込むことがまず原則である。
しかし切支丹史についてはこれまでほとんど宣教師たちが作った膨大な文書類がカトリック教会側の海外資料によるしかないといわれる。
それらの資料が作られた根拠が奈辺にあるのかといえば、カトリック教会や修道会の教化宣伝のために作られたのもであって、いわばキリスト教史観一色に塗られていて、なるべく知られたくない事柄の記録は当然収集されていないということがその特色であると研究者は云う。(高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』」)
 キリシタンへの迫害が日本人の蛮行であって、日本の恥部であることは認めるとしても、なぜそのような出来事が行われねばならなかったのか、そのことが大切な問題であろう。
ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫)にも見えるけれども、かれらの日本人の宗教社会や文化に対する蔑視意識は相当根深いようである、そういうことに対する報復ということが当時の集団心理に作用して、キリシタン邪教論が出た背景にあると言えるのではないだろうか。
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