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   【キリスト教禁教令の背景】

 秀吉はこの年の6月にキリシタン禁止令を発布するのであるが、その直前にガスパル・コエリヨのもとに使者を送って詰問状を突き付けている。
1,なぜそれほどまでにパードレは熱心に勧め、さらには強制してキリシタンとなすのか。
2,なぜ寺社を破壊し、佛僧に迫害を加えて融和しようとしないのか。
3,なぜ人に仕えている有益な動物である牛馬を食するという道理に背いたことをするのか。
4,なぜポルトガル人は、多数の日本人を買い、奴隷として自分の国に連れて帰るのか。
 「このような秀吉の詰問状に対して準管区長のコエリヨが答えた解答書は」
1,パードレがこれほどの苦労を厭わずにヨーロッパから渡来するのは、救霊のためである。それゆえ力の限り改宗せしめようと努めているのであって、強制してはいない。
2,神仏の教えでな救われないことを知った日本人たちが、自ら社寺を破壊したのだ。
3,パードレも、ポルトガル人も馬肉を食べる習慣はない。しかし牛肉は食べる。もしそれを止めることを殿下が望むなら止めましょう。
4,ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであり、パードレはこれを悲しんでいる。殿下がそれぞれの港の領主に日本人を売るのを止めるように命じ、違反者を重罰に処するなら、容易に停止するであろう。
 このコエリヨの回答を検討してみれば、
1,日本人の改宗に強制があったかどうかについたは、キリシタン大名を通じての大量洗礼による改宗が行われた。「日本では改宗は殿次第で、教会は強制力を持たない」と嘆いたパードレもいた。そして武力に訴えてでも日本をキリスト教にすべきだと訴えた強行論もあった。これはパードレに強制力がなかったことを裏付ける。しかし領主による有形無形の上から下への圧力によって、大量改宗が行われた以上、秀吉の強制改宗にたいする詰問は的を外れてはいない。
2,に云う寺社破壊は日本人が自発的に行ったとコエリヨは答えているが、実際に手を下したのは日本人のキリシタン信徒であるにもかかわらず、パードレは関係ないといってもルイス・フロイスの書簡などにもあるように、イエズス会宣教師の説教を聞いて、あるいは直接指示されて寺社破壊が行われた事例は数限り無い。 3,牛馬食肉については、ここでは論議にならない。
4,日本人奴隷海外売却に関するやりとりについては、以前から戦のたびに《乱妨取り》と言われる「ひとさらい」「生け捕り」や「ものうり」といって、雑兵たちが人身売買を行っていた。戦さが雑兵たちの食い口であったことは『雑兵たちの戦場』−中世の傭兵と奴隷狩り−藤木久志著1995年刊に詳しく書かれている。
それによれば、戦国期の戦乱は、奴隷商人の稼ぎ場であって、戦さが終わればこの雑兵たちの失業問題が起こって深刻な社会問題になったというのである。戦場付近では略奪は当然のことで、女・子供それに男たちも「ひとさらい」「生け捕り」によって《乱妨取り》され、国内ばかりか、広く海外のマニラ、インドに売られていた。ところが秀吉の平定によって群雄割拠の国取りの戦が一応の収まりがついたところで、この雑兵たちの失業問題が収拾つかず、矛先が文禄・慶長の乱という朝鮮侵略戦争にまで進展て、新たな稼ぎ場が求められた。 ところがその朝鮮にもたらされた巨大な戦争エネルギーは、次は東南アジアに向けられ、マニラやルソンではやがて激突するスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスの戦略拠点に向かって傭兵や武器供給要員が大挙集められてゆく。
そのような急速に変化して行く時代相に秀吉は底知れぬ不安を感じていたのではないか、と藤木久志氏は論じている。 つまり以前から日本の中に奴隷海外売却があったという。その前段階で行われた天正十五年の秀吉が島津討伐のための九州遠征は裏面にこのような「ひとさらい」「生け捕り」や「ものうり」という事情を引きずっていたと言われる。
『キリシタンの世紀』P150には『九州御動座記』(天正十五年七月作者不詳)によれば、人倫を失った人権蹂躙のありさまは、あさましく、繋がれて、さらわれて行く女子供のあわれさは見るに見かねる。そして《乱妨取り》する雑兵たちが手づかみに牛馬の肉を食いあさる姿は神も仏も忘れはてたあさましさであった。それらは伴天連の影響で、日本人の海外売却などの悪弊が横行していることを耳にした秀吉が、これを放置していては日本が外道の法に堕ちる。これを傍観していてはならないと、伴天連追放令を発令することを記している。 このようなことに関しての教会の姿勢はどうかといえば、一五九六年文禄五年に日本司教マルチンスが日本人男女を購入して海外に舶載する事を禁じている。 さらに一五九八年文禄三年七月三日にはヴァリヤーノが長崎へ来て、セルケイラ以下十二名の連署で奴隷売買を行った者に対する破門状を出すという出来事があっている。そして一六〇〇年には本国のスペイン・ポルトガル国王も日本からの要望に答えて奴隷売買禁止の命令を下したようである。しかし実際のところはその禁止令は極めて曖昧であり、その後、いくらでも人身売買は行われている。 以上のようなことから人身売買に関する秀吉からの詰問に答えたコエリヨの答えは内心に偽りが隠されており、誠実さを欠いているといえる。しかしこの回答の時点で秀吉は既にキリシタン禁止令を発令する決断は決まっていた。




■ 歴史年表 ■




西暦

年号  (時代)

    主なできごと

1587年

天正15年
(安土桃山)

◆大村純忠(洗礼名バルトロメロ)、坂口舘で没(55歳)。
4月17日宝性寺(当時キリシタン教会)に埋葬。後、本経寺に移す。
◇◆島津義久、降伏。5/8
◇◆秀吉、キリスト教禁止令を発する。6/19
◇高山右近を追放する
九州を平定し箱崎に凱旋した秀吉は、コエリヨのフスタ船に乗り込み、博多湾 │ │上で歓談したが、その夜、突然、禁教令を発した。翌日、秀吉は諸侯を集めて、 │ │「キリシタンは一向宗より以上に危険であり、パードレ等は、統治欲をその根本 │ │理由に持って、渡来しているのだ。」と言った。この禁令は政治統治、思想統治 │ │が将来の貿易統制の布石として、一石二鳥的に行われ、豊臣政権の基本路線になっ │ │てゆく。
《宣教師追放令》
1、社寺の破壊を禁止
2、イエズス会の日本退去を命ずる。
3、長崎・浦上・茂木を没収。6/15 島津勢、長崎を退去。上使として藤堂佐渡守(高虎)を派遣する。
4、キリスト教徒に過料を過せる。
◇島津義久、薩摩領内の一向宗を禁止する。
◇肥後一揆おこる。7/10
◇秀吉、肥後一揆の勃発拡大を鎮圧するため、加藤清正ら五名の腹心と軍を下向させる。8/

1588年

天正16年
(安土桃山)

◇☆キリスト教徒、連名でイエズス会総長に迫害状況を報告する。4/15
◇秀吉、肥後の国を北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に、球磨郡は従来通り相良氏に知行させる。閏4/15
◆豊臣秀吉 長崎を没収して公領にする。
◆◇長崎のキリシタンを追放。5/
◇イエズス会士(ポルトガルを背景とする)と托鉢修道会(スペイン系フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会)の「府内布教区」が今の大分市に置かれる。 ◆◇秀吉、深堀純賢所領の長崎を没収する。6/15
深堀氏は没収された領地返還を、施薬院宗全に求めた。増田長盛がこれを助けたが、後、秀吉の東国政策のことで二派の対立が起こり、緩和派の千利休に宗全は付き、強行派の石田光成に長盛はついた。やがて対立は権力闘争にまで発展し、千利休は死に至る
◇秀吉、京都東山大仏殿の造営を全国大名に課する。7/5
◇秀吉、全国に刀狩り令を出す。8/
☆◇原マルチノの説教、ゴアで出版される。
◇秀吉、宗 義智に命じ、朝鮮国王に謁し、明国出兵のための通信使派遣を要請。
交渉数カ月に及び、朝鮮はこれに従わず。8/
☆スペインの無敵艦隊イギリス艦隊に敗れる。
新教国イギリスはオランダと結び、国勢を伸張。スペインが衰退し始める。

1589年

天正17年
 (安土桃山)

◇秀吉、淀城を築く。3/
◇秀吉、京都のキリスト教寺院を焼き、キリスト教を禁止する。
◇秀吉、京都東山方広寺の大仏を鋳造する
◇比叡山延暦寺を再建。法華会を再興。
◇島津義久、琉球王尚寧の使者と上京し、秀吉に会う。9/24
◇加藤清正、天草一揆に出兵。苦戦のあげく鎮圧。
◆天草学林(コレギヨ)、島原の加津佐に移る。
◆医師ヴィンセンテ、長崎に来る。その父、ポーロも後年来崎。

1590年

天正18年
  (安土桃山)

◎秀吉、本願寺の京都移転を命ずる。1/
◇豊臣秀吉、天下を統一する。
◇秀吉、高野山の寺領を没収する。2/
◎大阪天満の地、五百石を本願寺に領知させる。3/5
◇◆ローマ少年使節、バリニヤーノが同行して長崎に帰りつく。6/21
◆加津佐でイエズス会の日本布教に関する協議会がヴァリニャーノ主導のもとに開かれる。その席で、大名間の闘争に教会が武力介入することを禁止規制し、金銭か食料を支援することだけをみとめることを決議。



なぜこのような方針を打ち出すに至ったかといえば、豊臣秀吉による統一政権が成立し、切支丹教会にたいして厳しい態勢で臨むようになったことと、ある程度の方針決定の権限が布教地の会員に任せられていた。現地適応政策。

☆“切支丹版”『九州三候遣欧使節見聞対話録』サンデ篇がマカオで刊行される。
◇小田原城、落城。北条氏滅亡して豊臣秀吉が天下統一。7/5
◇秀吉、関東を家康に与える。家康、江戸城に入る。8/1
◇家康、増上寺を菩提寺とする。8/

1591年

天正19年
  (安土桃山)

◎顕如、本願寺を京都に移す。1/20
1月4日、秀吉は京都六条屋敷を本願寺に与えることにしたが、同日、京都七条坊門堀川の地十余万歩を領知させる。1/5
◇◆ヴァリニヤーノ、遣欧使節とともに秀吉に謁し、インド総督ドン・ドワルテの書簡と進物を献じる。1/8
◎本願寺、准如(15歳阿荼丸)得度。2/3
◇秀吉、千 利休(71歳)を自殺させる。2/28
◆伊東マンショら遣欧使節の4名、天草でイエズス会に入会を許される。6/5
◎本願寺、京都堀川七条に移る。8/3  興正寺六条堀川に移る。8/
◇秀吉、東寺に2030石。高野山に11000石を寄進。9/
☆◇秀吉、原田孫七朗を派遣し、フィリピン諸島に対し、文書で入貢をうながす。
◇秀吉、朝鮮出兵の命令を下す。8/23
2月28日 利久自殺(秀吉側近の権力闘争激化)。
3月 全国へ人掃い令(戸口調査令)。
8月21日 朝鮮出兵のための兵員確保のため、士農工商の身分を固定する。
8月28日 征明計画発表。
9月 3日 壱岐に朝鮮渡海の御座所を作るよう命令。
→10/10名護屋城築城命令
◇◆ヴァリニヤーノ、活字印刷機をもたらし、加津佐・長崎・天草・京都で切支丹版、数十種を出版する。『サントスの御作業の内抜き書き』刊行される。

1592年

文禄元年
  (安土桃山)

◇秀吉、朝鮮派兵を指令。文禄の役始まる
1月 5日派兵指令
3月12日 小西行長ら第一陣、名護屋(佐賀)を出帆。
3月26日 秀吉、京都を出発して肥前名護屋に向かう。
4月25日 秀吉、名護屋本営に入る。
5月 2日 小西行長ら、漢城(京城)に入る。
6月 3日 朝鮮在軍の再編成を指令する。
6月15日 小西行長ら、平壌に進む。
7月22日 秀吉の母、大政所(76歳)没。秀吉帰京。
8月20日 伏見築城縄うち。
9月 明の遊撃将軍、沈 惟敬、平壌で小西軍と五十日の休戦
10月 名護屋に戻る。
◆長崎の教会がこわされ、木材が名護屋に送られる。8/10
◆◇長崎に初めて、奉行が置かれる。
文禄元年◎京都、本願寺御堂造営始まる。2/
12/8改元 上棟式5/21 落慶法要11/18。
◎本願寺顕如(11世)、歿50歳。11/24
◎教如(12世)住寺となる。11/25
◇朱印船制度、始まる。京都・堺・長崎に限り、海外貿易が許可される。
◆長崎の内町が整う。
江戸町・本博多町・金屋町・椛島町・今町・本五島町・内下町・浦五島町・新町・本興善町・後興善町・豊後町・引き地町・桜町・内中町・小川町・船津町の十七 町。人口3000人
◆平戸でキリスト教司祭ガスパル・ショルジョが毒殺される。翌文禄二年には司祭フラネト・ジョセフとファンデレ・テオドロが毒殺される。これは平戸の領主が切支丹に圧迫を加え始めたことを表している。
☆マカオにコレギオ創建

1593年

文禄2年
  (安土桃山)

◇秀吉、蠣崎広慶の蝦夷島管理を認める。1/5
◇碧蹄舘の戦い。日本軍と明国軍、京城北方で激突。1/
◇小西行長、平壌で、包囲され、撤退する。1/7
4月18日 行長京城を撤退
5月15日 行長・石田三成ら、名古屋に戻る。
6月28日 秀吉、和平条件7カ条を示し、併せて行長らが明使に説くべき4カ条を添える。
◎秀吉、准如の本願寺住持職(12世)就任を認める。10/14
◎教如、醒井堀川側に隠居する。10/
◆ポルトガル船入港。船長ガスパル・ピント及び神父フランシスコ・パシオ、名護屋の奉行寺沢広高の斡旋により、秀吉に会う。ポルトガル人の宗教上の慣行を理由に神父10名の長崎滞在と教会の再建の許可を得る。この教会に出入りするものはポルトガル人に限るとされていたが事実上はまもられず、布教伝導は再び盛んとなる。
◇秀吉、台湾に入貢をうながす。11/15
☆◇マカオにコレギヨ設立。日本イエズスカイの本部となる。
☆◇タイのビルマ攻撃に、日本人、従軍する(17世紀初頭にかけて、タイの日本人町発展する)
◇スペイン系フランシスコ会ペドロ・パウジスタがフィリピン総督の第2回使節として来日、秀吉と会見。秀吉は、かねてめざしていた通り、フィリピンに入貢を要求、バウチスタは本国と連絡の間、一行のうち4名を親善のため滞在させることの許可をもらい(秀吉にとっては人質)、直ちにマニラに宣教師の派遣をもとめ布教を開始した。こうしてフランシスコ会の布教は始まった。
◆長崎に初めての遊女屋ができる。

1594年

文禄3年
  (安土桃山)

◇§沈 惟敬講和の前提である秀吉の降表を小西行長とともに偽作し、この日、慶尚道熊川を去り、内藤如安の後を追う。1/20
◇秀吉、高野山を再興。
◇石川五右衛門ら、三條河原で釜茹でにされる。8/24
◆◇キリスト教徒を、長崎で処刑する。
◇秀吉、伏見城起工。大政所の三回忌法要
☆◇ヘロノモ・デ・ヘスス(フィリピン使節)平戸着。伏見で秀吉と会見。7/12

1595年

文禄年
  (安土桃山)

◇6月と8月に京都で大洪水。
◇法華宗不受不施派、方廣寺大仏殿の法会出席を拒否。9/
◇秀吉、秀次を高野山に放逐する。7/8
◇秀次、秀吉の命により自殺する。7/15

1596年

文禄5年
  (安土桃山)

◇秀吉、方廣寺大仏殿で、千僧会を行う。1/29

1596年

慶長元年
 (安土桃山/江戸)

◇高野山金剛峰寺249院が焼ける。4/22
10月27日  ◇畿内で大地震、伏見城天守閣、方広寺大仏殿、大和薬師寺両院など倒壊、本願寺諸堂も倒壊。7/13
      ☆日本司教マルチンスが日本人男女を購入して海外に舶載する事を禁じる。
      ◇秀吉の日本軍、朝鮮の事情を知り、再戦を決める。9/2
      ◇サン・フェリペ号事件と26聖人処刑事件おこる。
10月19日、スペイン、ガレオン船、サン・フェリペ号遭難して土佐浦戸港に入る。乗組員が大阪に逃走。秀吉は増田長盛に命じて船中を探索し、積み荷を没収し、残った乗組員を監禁する。怒こった航海長ピロウトは長盛に対して、スペインが長大な国であり、それらは先ず、宣教師が布教し、次いで軍隊を出して日本を征服するのだと語った。それを聞いた秀吉はキリシタン逮捕令を出したという。 12月9日フランシスコ会の神父ペドロ・バウチスタ外25名(神父3、教弟3、イエズス会の日本人教弟3、日本人信徒17)を京都で逮捕投獄。長崎へ送る。 12月19日 長崎西坂で架刑。いわゆる二十六聖人処刑。 この事件がなぜここまで重大事件に発展していったかその経緯は。 1,畿内の大地震で京都周辺が大混乱の最中であった。 2,文禄の役後の朝鮮通信使、明の冊封使、沈 惟敬との交渉で秀吉は激憤していた。
3,秀吉は病気中で、心理的に高潮していたことから積み荷没収を発作的に命じた。しかしサン・フェリペ号の帰帆のときには航海に必要な食料、燃料等、充分下付している。
4,スペイン人対ポルトガル人。フランシスコ会対イエズス会の対立と責任転嫁に対する以前からの複雑な感情。
5,遭難船のフランシスコ会宣教師フェリーペ・デ・ヘスース等を京都に招いて、単に京都見物を許したのみにもかかわらず、キリシタン伝道に従事したという違法。
      6,それに、以前からあった日本侵略の野望。等々。
◇☆◆サン・フェリペ号事件と26聖人処刑事件の関係は、切支丹に対する布教活動の禁止を無視したという理由で、乗船者を監禁した。逃走した数人は大阪と京都で逮捕。その中のフランシスコ会士を含む宣教師・信徒26名を京都で逮捕したあと晒して、長崎の西坂に送って処刑した。ところがフランシスコ会士たちはフィリピン政庁から派遣された外交使節でもあったということから、布教の妨害はスコラ哲学神学者のアセンシオンの正当戦争論の論理からすれば、これは戦争の正当な理由なのであって、フライ・マルチン・デ・ラ・アセシオン(フランシスコ会士26聖人)はその代表的人物である。それらに対する不当処理・布教妨害であるから、それは秀吉に対する戦争の正当な理由になるというのである。
◇秀吉、全国の大名に「荒田没収令」を出し、大名領開発奨励策を行う。

1597年

慶長2年
  (江戸)

◇朝鮮出兵慶長の役 朝鮮、秀吉の侵略軍と戦う。明、援軍を送る。
加藤清正、釜山西に兵を進め、朝鮮に再征を通告する。1/14
◇秀吉朝鮮在留軍に対し、明国軍が参戦するなら自ら渡海すると通告する。2/21
☆◇フィリピン総督、使者を派遣して、サンフェリペ号の貨物返還を要求。4/12
◇§日本軍と明国軍、南鮮で戦闘。7/7〜12
☆◇二十六聖人殉教を報告するため、マルチネス、マカオに帰る。ヴァリヤーノ及びセルケイラらと協議。
◆天草本渡のコレギヨ閉鎖。学生50人浦上に移る。
◆長崎外町ができ始める。酒屋町・袋町・本紺屋町・材木町。
◆☆ルイス・フロイス、長崎で没。7/8 65歳
◇§明国の援軍、加藤清正、浅野幸長らの侵略日本軍を包囲する。12/22
☆シェークスピア、『ロミオとジュリエット』

1598年

慶長3年
  (江戸)

◎蓮如、100回忌。
◇◆ヴァリヤーノ長崎へ来る。セルケイラ以下12名の連署で奴隷売買に対する破門状を出す。7/4
◇豊臣秀吉、没。(63歳)8/18
◇秀吉の死によって石田三成ら、朝鮮及び明国にたいして和議交渉を始める。徳永寿昌・宮木豊盛を使者としてその交渉と撤兵の指示をする。8/22
◇島津義弘の軍、壱岐に着き、撤兵おわる。12/6
◆長崎悟真寺が建つ。筑後善導寺の僧聖誉は長崎における仏教衰退を嘆き、数年間布教。ついに稲佐に悟真寺を建てる。

1599年

慶長4年
  (江戸)

◇ヘロニモ・デ・ヘスス、家康との接近を図り、江戸で布教。フランシスコ会の江戸 教会できる。
◎准如、百僧を率いて豊国廟桜馬場の千僧供養に参列。4/18
◇§島津義弘、高野山に朝鮮全羅道・慶尚道等の彼我戦没者供養塔を建てる。6/
戦争で死んだ兵士を「怨親平等」、敵味方の別なく供養した。
◆大村喜前、第1回の検地を終わる(総石高21427石四斗)。4/28
◆平戸の籠手田こてだ氏キリシタンとして迫害され、600人の家臣を連れて長崎へ亡命する。7/
◇方廣寺で豊国祭。8/
◇家康、不受布施派の妙覚寺日奥を対馬に流罪。11/
◎教如、「正信偈」・「三帳和讚」を改版。11/
☆シェークスピア、『ジュリアス・シーザー』

1600年

慶長5年
  (江戸)

☆◇オランダ船リーフデ号、豊後に漂着3/16
主席航海士イギリス人、ウイリアム・アダムス(日本名三浦按針1564〜1620)、家康と大阪城で会見。信望を得て日本に残留。1620年平戸で病死。
◎教如、家康を訪ねて東国へ下向。8/17下野小山で家康と会見。帰京7/2
◇関が原合戦。9/15 徳川東軍、豊臣西軍を破る。 ◇敗者、石田三成 40歳、小西行長(ドン・アウグスチノ)、安国寺恵瓊ら京都六条河原で斬首刑となる。9/15
◎教如、大津城で家康に会う。9/20
◆◇大村喜前、家康から感謝状を受ける。(加藤清正が小西行長を攻めるとき喜前は援軍を派遣、この事件から喜前は大阪に上り、家康に謁する。9/28
◎准如、家康に会う。11/17
☆イギリスが東インド会社を設立。
◇この年、明商船初入港
☆このころオランダにライデンの町出来る。

1601年

慶長6年
  (江戸)

◎家康、本願寺へ来る。7/5
◎教如、伏見城に家康を訪ねる。8/2
◎家康、本願寺に教如を訪ねる。8/16
◇家康、宣教師を国外に追放し、キリスト教を禁止させる。10/
◆セルケイラ司教のもと、長崎大神学校ができる。
◆メスターキ神父によって、山のサンタ・マリヤ教会付近(現在の美術館一帯)にサン・ミゲルの墓地ができて、そこから南方へ長崎で初めての石畳ができる
◆日本人で初めての司祭が出る。サンタ・マリヤ教会のセバスチャン・キムラとルイス・ニアバラ。
☆§マリオ・リッチ、北京に天主教教会を建てる。
◇佐渡の相川金山が発見され、これより、徳川幕府の財源となる。

1602年

慶長7年
  (江戸)

☆オランダ、東インド会社(V・O・C)設立。1/27
◆ポルトガル船、パウロ・デ・ポルトガル長崎入港。
◆バリヤーノ長崎を出港してマカオに向かう。1/15
◆伊東マンショ、中浦ジュリアン、マカオへ渡る。
☆◇フィリピン総督、家康に書簡を送り、在留日本人の非行を禁じ、渡航船数を毎 │ │年6隻に限るよう要請。4/11
◎家康、教如に京都六条の地、四町四方を寄せる。2/
東西本願寺分派
◇京都東山方廣寺大仏殿焼ける。12/4
☆シェイクスピア、『ハムレット』
◆林 羅山20歳(1583〜1657)、長崎へ来る。
林 羅山(天正11年〜明暦3年)は京都の人、幕府儒官 林家の祖。はじめ建仁寺(臨済宗建仁寺派)の僧であったが藤原惺窩ふじわらせいかの門人となり、徳川家康に仕えるようになった。そして四代家綱までの侍講、外交文書、諸法度の草案を作り、幕政の整備に大きな力を与えた。また上野忍が岡に塾を造り、朱子学の立場から「大学抄」「大学解」「論語解」などの訓点・出版、経書講述をおこなった。「日本史」「神道伝授」「本朝神社考」などを出版し、日本古来の宗教を朱子学の見地から理論ずけた。主著『本朝通鑑』『羅山文集』など。
慶長12年、武家諸法度・諸士諸法度を起草。翌年朝鮮国への国書を起草。慶安元年(1649)910石を給せられた。
◆大村喜前、大村に日蓮宗の本山として本経寺建立を計画。
◆§複建省の商人、奉行の許可により、稻佐悟真寺を菩提寺とする(中国華僑社会の始まり)。中国東南岸一帯にかけて猛威を奮った倭寇も、一五六五(永禄八年頃になってその活動が衰え、海上交通の危険がなくなった。そうした事情から中国商船が頻繁に長崎・平戸・薩摩へ来航するようになる。しかし明朝は海外通商を禁止していたので、日本来航は密貿易ということになるが、数は次第に増え、船も大型化してきた。当時、中国では、満州の清が興って、南下進出してきた。明朝の志士たち多数が長崎に亡命するようになり、こうして唐人船と唐商人それに政治亡命者の流入とが重なり、長崎に華僑社会が形成されてゆく。
☆◇ドミニコ会アウグスチノ会神父、初めて渡来。
◆この年 オランダ人・イギリス人、平戸に来、居住して貿易を始める。

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