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                    【江戸時代】

 十七世紀の半ばの徳川幕府は、中国、朝鮮、オランダと長崎を通じてしかもきわめて限定された通商しか行わず、外はすべて拒否する体制で望んだ。それは国際的に閉じた体系として位置ずけていた。今日ではこのことを「鎖国」と呼んでいる。だがこの「鎖国」ということばで当時の権力者達が日本の体系を考えていたわけではない。この言葉は19世紀の初頭に、幕府の対外政を批判する立場から、志筑しつき忠雄(蘭学者)が作り出したものといわれている。外交の基本形態ができあがった17世紀に当事者が意識していた用語でなかった為、明治以後の近代史学史において次のように二つの評価の流れが常に交錯しながら展開してきた。  ?、否定的見解 →日本人の海外発展の芽を抑圧し、閉ざされた島国根性をきざみつけた専制の象徴である。  ?、肯定的見解 →固有の日本文化の成熟をもたらし、近代化への対応の基盤を準備した社会秩序の枠組みとなった。  この閉じられた世界を作り出した誘因はヨーロッパの覇権主義に対する反作用であった。  大航海時代を終えたヨーロッパはこの頃はまだアジアの一角に植民地をようやく獲得したに過ぎなかった。それは航海と造船技術の未発達によって、政治的、あるいは経済的な勢力はまだ極東にまで達する能力を持たなかったからであろう。しかしカトリックの一会派、イエスの軍隊としてのイエズス会のみは新しく発見された東方世界をキリスト教化するための世界伝導のプログラムを推進し、地球儀を視野のなかにおさめていた。そして日本もそのなかに含まれる。幕府の鎖国政策は、まずこのイエズス会の世界戦略と絶縁し、離脱することにあった。
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