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【蓮如年譜】


応永22年(1415)2/25誕生。
  27年(1431)正蓮院で剃髪、16歳。父存如の死、康正3年(1457)までは26年間の修学時代。
文安5年(1448) 33歳、奈良興福寺の経覚、大谷を尋ねる。このころ以来、生涯にわたって師としての交流盛ん。
長禄元年(1457)42歳、清貧で長い部屋住み時代を終え、第7世存如から本願寺の法灯第8世を継いだ。
4年(1460)45歳、『正信偈大意』を著す。
寛正2年(1461)47歳、はじめて『お文』を書いて門とを教化。親鸞200回忌
6年(1465)51歳、比叡山衆徒から東山大谷本願寺が破脚される。祖師親鸞の御影を奉じて近江堅田に難を逃れる。
文正2年(1467)53歳本願寺の親鸞影像を、近江栗本郡安養寺から堅田本福寺へ移す。
応仁元年 〃 延暦寺本院、本願寺を赦免し末寺とする。応仁の乱始まる。
2年(1468)54歳堅田本福寺の親鸞影像を大津の新殿に移す。延暦寺衆徒、近江堅田を攻める。
この年、北國・東国の親鸞遺跡を訪ねる。
文明3年(1471)57歳、越前吉崎に移り、ここを拠点として北陸一帯に布教を行なう。
5年(1473)59歳、『正信偈』・『三帳和讚』を開版。『お文』に吉崎建立の由来を述べ、信心為本し、物取り信心・十劫秘事・不信心を批判。また9月に越前超勝寺で書いた『御文』1の14に、越中・加賀の修験道、越前の白山権現などを誹謗する門徒たちに対して、他宗、諸宗批判を厳しく禁止する。
前年の第四子見玉尼の死を悲しむなど、身辺に不幸多く、無常感深まる。
6年(1474)60歳、吉崎坊舎焼失。加賀門徒、富樫政親と組み専修寺門徒および富樫幸千代の軍と戦う。
7年(1475)61歳、加賀門徒、富樫政親と争う。蓮如、『お文』で六カ条の掟を定め、背反するものを破門する。吉崎を退去して河内出口に草坊を建てる。
10年(1478)64歳、河内を出て、山科に移る。
12年(1480)66歳、山科に本願寺を再興。親鸞影像を大津顕証寺から移し報恩講を営む。『お文』にその感激を述べる。
長享元年(1486)72歳、加賀一向一揆激化。
2年(1487)73歳、加賀の本願寺門徒、富樫政親を撃つ。蓮如、一揆に対し戒めの「お文」を書く。 幕府から、加賀門徒の破門を迫られる。
延徳元年(1489)75歳、山科本願寺南殿に隠居。住持職を実如にゆずる。
2年(1490)76歳、『お文』で、宗名は一向宗ではなく、浄土真宗であると説く。能登で本願寺門徒、守護攻略を計る。 明応5年(1496)82歳、大坂石山道場を創建する。
8年(1499)85歳、3/25 蓮如大阪で歿。
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■ 蓮如年表 ■

西暦

年号  (時代)

    主なできごと

1460年

寛正元年(室町)

   蓮如、近江金森道西の求めにより、『正信偈大意』を著す。

6月 蓮如兼壽応永22年(1415)〜明応8(1499)84歳。室町時代の浄土真宗の僧。本願寺8世。
「真宗再興の上人」といわれる。

1461年

寛正2年 (室町)

  《寛正の大飢饉》京中の餓死者8万人という。幕府の財政窮乏し、五山から巨額の融資を受ける。

3月 蓮如、はじめて『お文』を書いて門徒を教化する。

7月 蓮如、『教行信證』(延書き)を書写して近江栗太郎安養寺浄性に下付。

11月 親鸞二百回忌

1464年

寛正5年(室町)

高田派10世の真慧、伊勢の高田を後にして一身田に移転

1465年

寛正6年(室町)

◇1/8 叡山西塔院勅願不断経集会が本願寺撤去を決議し、本願寺破却を通達する。
    
◎1/10 延暦寺僧徒、本願寺を襲撃。連如、逃れ近江堅田に至る。
   
◇延暦寺僧徒つづいて近江赤野井門徒を攻める

◎近江に一向一揆はじまる。(〜1567)

1466年

文正元年 (室町)

◎8/5 蓮如、興福寺経覚、越前朝倉氏と交信、越前出向の条件を整える。

1467年

応仁元年(室町)

◇5/26 応仁の乱起こる。(〜1477)
     幕府政権の失墜によって戦国大名が各地に起こる。

     細川勝元(東軍)と山名持豊、畠山義就(西軍)が諸国の守護をまきこんで衝突、京中で市街戦が行われる

1468年

応仁2年(室町)

◎3/29 延暦寺衆徒、近江堅田を襲う。→堅田衆、琵琶湖沖島へ逃げる。

1469年

文明元年(室町)

◎春 大津、三井寺南別所に本願寺坊舍を建て、顕證寺と称する

1470年

文明2年(室町)

◇8月 興福寺衆徒、大和の法華宗徒を討つ


つづく