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【あとがき】

 私は子供のころ、いつの間にかキリシタンへの弾圧の恐ろしい話を聞いて知っていました。また私が育った寺の由緒書きに《邪宗門改め》の文字が書かれ、おばあさんが語っていたキリシタンからの夜討ちによる坊守殺害の伝承も聞いて育ちました。しかも私の村には《二十六聖人上陸》の地という小さな港があって、それがいつの間にか場所が変わって、別の港の目につき安いところに案内板が立っていることが気掛かりになり、「歴史がこういうふうにして伝わるのか」と思いながら、何となく時を過ごしていました。  そうこうしているうちに、近くの小学校の生徒の郷土史自由研究として、たびたび子供達が萬行寺の由来を聞きにやって来ることが頻繁になってきたのです。あるとき「仏教は悪い教えですか」という子供のあっけらかんとした質問にあったことがあります。私は「それはどういう意味か」と問い返したところ、その子は「仏教の坊さんがキリスト教徒を皆殺しにしたのでしょう」というのです。その言葉に正確に答える云い方がみつからないまま気掛かりになっていました。  その年、一九九二年の夏にスペインのバルセロナで開かれたオリンピックは、巨額の負債を残しての幕切れでした。その際に《コロンブスのアメリカ発見五〇〇年記念》の行事が開催され、世界中の帆船パレードの美しい映像を観ました。しかし一方ではその記念行事に対して、アメリカ・アジア・オーストラリアなどからヨーロッパの侵略に対する告発デモが放映されているのを観て、「そこが大切」と私も歴史的正合性を自分の中でこのまま曖昧にしていてはならないと思って、まず画家の友人とスペイン・イタリア旅行をしたわけです。その珍奇で楽しい旅行の間にイエズス会の本部と云われているマドリードのサン・イシドロ教会の古色蒼然とした姿に触れ、ピカソの“ゲルニカ”にも対面できました。  そして敗戦五〇年という矛盾に満ちた時機を迎えることになったのです。私たちの宗門である真宗大谷派の長崎教区は一九九五年七月九日に「原爆五〇周年記念《非核非戦法要》」を勤めました。おびただしい被爆者の悲しみの心、その被害は、かつての日本のアジアのみならず世界への侵略戦争という加害の因縁によって起こった過去を背負っての被害です。この表面からは見えにくい被爆の痛みが、しかも「被害が加害」というところに人間の闇があり、長崎の悲しみの深さがあります。  歴史の正合性を学ぶことは過去の出来事から目をそらさずに、現在に責任をもってゆくことです。そうしなければ歴史はともすれば歴史家によってさえ改竄され続けるということがあるのです。  ヘーゲルが云った「われわれは歴史を、そのあるがままに見なければならない。つまり、われわれは歴史的、経験的なやりかたをしなければならない。殊に、専門の歴史家に惑わされてはならない」この言葉は私たちが時代批判をして、自己を批判しながら未来を志向することを怠けてははならないことを示唆している金言であると思います。  私のように、真宗寺院の住職として門徒の方々に法話という機会を与えられて、何かを語ろうとする場合、ささやかな努力の積み重ねを惜しんではならないと思って、ぼつぼつメモを作りながら考えているうちに結果的に出来たものがこの《日本史の或る視点−闇から明を視る》と題した小冊子です。  全くの素人研究ですから稚拙なものかも知れませんが薦める人がありましたので印刷することに致しました。どうぞ意のあるところをおくみ取りくだされば幸甚と存じます。
 なお末尾に掲載致しました通りの資料を使用させていただきましたことをこの紙面をもって各研究者の諸先生方にお礼もうしあげます。また印刷製本の労をお受けくださった創栄会社の鍋谷 昭氏にお礼申し上げます。
 1996年2月10日


亀井廣道(かめいひろみち)

昭和20年(1945年)11月6日長崎原爆爆心地から約6キロの萬行寺に生まれる。
昭和43年(1968年)大谷大学文学部卒業 
昭和44年(1969年)真宗大谷派の宗務役員として勤務。
昭和52年(1977年)退職
昭和55年(1980年)真宗大谷派長崎教区萬行寺の第一八世住職を継職


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