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春期 永代経法要 法話録 講師 岡本英夫師 <<2007/5/30 前半 >> ー大無量寿経/流通分/難中の難ー 大無量寿経(仏説無量寿経)の教えを少しいただいて来ています。 親鸞聖人が「ここに真実の教えあり」とおっしゃっいました経典。 なかなかこれをいただいていくのは大変なことですが、寄せては返す波のように、何度も何度もぶつかって頂戴していってみ たいと思っています。 大無量寿経でお釈迦様がこの経典を説き終わって最後の一言のところを「流通分/るずうぶん」といいます。 その流通分の最後に「この経典はなにが問題なのかという位置づけで説かれたものなのか」というこ とをお釈迦様が顕らかになさいます。 「自分はずっとこの経典を説いてきたが、実はこういう大きな問題が一番根本に横たわっている。この問題が 解決しなければ、人々の上に本当の救いというものは起こらない。」とおっしゃる。 その最大の問題点はただ一つ。 それが最後にあげられる「信楽受持することの難」。『信楽受持 難中之難 無過之難』(聖典p87)ということです。 ー信楽受持の難ー 私たちが、信楽を受持することは甚だ難しいことであると。 信楽は如来の信心、他力の信心です。信心を私たちがいただくということが最大の問題であり、最大の難しさを持っているこ となんだと。 ここに焦点を当ててこの経典を最初からずっと説いてきたんだというわけです。 そして、説き終わって、いよいよその経を結ぶときに、またそのことをおっしゃります。 「これが問題です」と。 ですから、経典を説いてきたその一番根っこにどういう思いがあってずっと説いてきたのかということが大事です。 ちょっと極端な例を言います。「いつも調子いいことばっかり言っているけども、あの人はどうも腹に一物あ るような。善いことは言うんだけれども、その善いことのもう一つ下に、根本のところに何か怪しい心がある。 危ない心がある。」そういうようなことがあって、その心の底にどういう思いがあるのかということを知ることは、人と触れ合う中でも大事 なことに当然なって来ます。 「あなたの本当の心、一番底にある心はなんですか。」ということを、お互い知りたいというような思いも強く出る、 あると思います。その一番底の思いがわかれば、表面的なことは時と場合によって少々どうであっても信頼感は壊れないとい うことです。そういうふうに、何か物を言っていく、何か行動を起こして行く時の一番底の思いです。 それが今、お釈迦様のこの最後の言葉によれば、阿弥陀仏という仏様があなた方を救おうという点において一番大事 な問題、そしてそれが同時に一番難しい問題でもある。それが、信心を頂戴するという問題です。だから、このことが 達成できなければ本当の救いは起こらないわけですから。 阿弥陀仏が本願を興していかれるそのあゆみをなさるときに、このことを中心に考えられて、どういう本願を具体的に興して 行こうかと、そういうあゆみをなさったというわけです。 ー真実ではない者がいるからこそ用く如来の智慧ー 信楽受持がいかに難であるかということがありますから、まず阿弥陀がその本願を興していく。本願を作り上げて行く、 本願を見出して行く。その歩みをするのが、法蔵菩薩です。 法蔵菩薩の歩みは、一番根本に、「いかにして私たちの上に真実信心を成就するか」この一点にあったというわけです。そうい う歩みを、「かくのごとく作し」というのです。仏様の私たちを救わ んとする歩みがあります。 これを普通の短い表現でいうと、「真実というものは、真実でないものに対して用きかけている」ということ。光が闇に対して 用きかける。 光が闇を照らすように、真実は真実でないものに用きかけるのです。 その用きかけといったら、それだけでは非常に解りにくいですから、その解りにくいところを、大無量寿経では、まった く違う解り易い内容で表しました。 法蔵菩薩という人が救われていない人たちを見出して、この人たちをすべて救いたいという願いを興す。 では、どうすれば救うことができるのかという事を色々先生から教えてもらい、自分自身も歩んで行って、ついに四十八願という 本願を興したという非常に簡単に言ったんです。 そこに本当に大変な内容があります。 それが、この大無量寿経で説かれていることです。 ー法蔵菩薩のあゆみ〜嘆仏偈〜ー 法蔵の教えを説いたのはお釈迦様です。 これはその説かれる真実なるものが本当に用いている事実を指しています。 本当にこれは凄い。言葉で表せばこれだけのことなんですが、実際、そのはたらきがある。 それを大経は非常に解りやすく表しました。そのはたらきを解りやすく表したのが法蔵菩薩が四十八願を作り出すという歩み。 それがまずあります。 その法蔵菩薩が歩まれるときに、一番心の底の思いとしていたのが、信楽受持の問題です。 ー嘆仏偈ー 法蔵菩薩の歩みの、最初の段階が嘆仏偈。これは、法蔵菩薩が世自在王仏という自分の先生の姿を見て、 「光顔巍巍として威神極まり無し」というふうに仏を嘆ずる。つまり自分の先生を讃嘆する。そして次に「願わくは我もまた聖法王に斉(ひと)しく」といっています。 あれは法蔵菩薩が先生である世自在王仏に言うんです。 自分の先生である仏さまが、沢山の修行を成就して次々と人々を救って行っている。 そういう姿を見て、「なんという素晴らしい仏さまだろう。自分もあのような仏になりたい」という願いを起こすというわけ です。 ですから、願いを起こす前には、讃嘆があるわけです。これは私たちにもよく解る。私たちも何かをやろうと願いを起 こすときには、何かそのきっかけとなった讃嘆がありますね。 たとえばプロ野球を見に行って、凄いなあと思って、僕も野球の選手になろうと思うんですよ。 自然の心の展開ですね。こういう基本的なことですが、経典で仏様が主語になって述べられていくときの、仏様 の心の動きとか何かをするということは、全部人間に当てはまるんですよ。 人間の感覚のところで言っているんです。そうでないと、私たちには解りません。 解るように表しているというのは、私たち人間の言動のところで、行動のところで表して いるわけです。だからここも同じです。 ー法蔵菩薩の願いー 仏様を、先生の仏様を称えて、自分もまたそのような仏となりたいと願う。 強いていえば、この「かくのごとく作し」の「作し」がこれにあたるかも知れません。 仏となって行くための歩みです。仏となるというこの仏が阿弥陀仏、四十八願。本願の用きの仏です。 だから、阿弥陀仏となるということが、四十八願という本願をついに成就した、あらゆる人を救う本願をついに成就し たというのが、阿弥陀仏という仏となったということです。 ー「仮令身止諸苦毒中 我行精進忍終不悔」ー そういう風に嘆仏偈はずっと続いていって、最後に「仮令身止諸苦毒中 我行精進忍終不悔」とこういう。赤い勤行 集の九十六頁の最後の下の段にあります。これで嘆仏偈が終わって行くわけです。 この四句一偈が、法蔵菩薩の願いの原点を表していると言われます。この言葉は不思議な言葉です。私、これを見て、よくぞこういう表現をされたなと思います。 「仮令(たとえ)このようなことがあっても我が身を」、これは法蔵菩 薩御自身の我が身をですね、「諸々の苦毒の中に」、この「止まる」は我々の聖典では「おわる」とこういうんですね。諸々 の苦毒の中にわが身をおわる、おえる、わが身を止(とど)めるんですね。 この「苦毒」というのが修行なんです。私たちがそういう大変な存在。その中に法蔵菩薩が我が身を置くわけです。 止めるわけです。最後までそこが法蔵菩薩御自身の居り場所なんです。他所へはもう行かないんです。 たとえそのようなことになっても、「我が行は」、「行」は歩みです。法蔵菩薩の歩み、力を発揮することね。「我 が行は精進にして=精進の歩みをそこで貫いて、忍んで終(つい)に悔いじ」。「忍」というのは、明らかにすることです。 明らかにすると言うのは、自らが降り立ったこの苦毒=衆生の苦毒の実態、実際はどうなっているか、そういうものを明らか にして行って、ついに終わりまで=最後まで、悔いる=後悔するということはしない。もう精進なんか止めたと、そんな後悔 をすることはしない。「最後まで精進を貫いて、自らが降り立っているこの一人の人の存在、苦毒という言葉で表されている この存在の全体を明らかにして行く歩みを、私は最後までやりぬいて行きます。」というのが法蔵菩薩の願いです。 これはまだ、四十八願を興すはるか前というか、最初の時点での願いです。法蔵菩薩が願いを起こした最初の願いで す。最初の大きな願い。だからここに、いわゆる願いの原点ともいわれるべきものがあるんだと思います。 ですから、法蔵菩薩というのは、どんなことがあっても私たち一人一人のところへ来たって、私の最後まで私の生涯 全体を貫いて、この私という存在がなんであるかを明らかにし抜いて行く歩みをする。それが、どこまでも精進を貫いて行く というわけです。 そうしますと、そういう風にして表されている法蔵菩薩というのは、他の表現で言ったら何でしょうかね。これが「 信心」だと思いますね。その法蔵菩薩のところを「信心」と置き換えますとね、信心が私の上に成就して、その信心が私とは 何であるかを、私の生涯最後の日まで照らして照らして明らかにし抜いて行く訳です。それが途中でもう力弱まって明らかに できないようになったということが無いようにね、最後まで、我が行は精進を貫いて行きます。だから、その信心をいただい た私たちの方からすれば、「自己とは何かを照らし出されて、照らされ照らされてどこまでも歩んで行きます。照らされて歩 んで行きます。照らされるということをやり抜いて行きます。」ということになるわけです。私の方から言えばね。仏様の方 から言えば、「そのものの中に至って、どこまでもそのもの何であるかを明らかにして行くという『行』を、どこまでも精進 の行としてやり抜いて行こう」というわけです。 まあ、こういうのがね、仏様の、法蔵菩薩の最初の願いですね。これが原点です。ですから、もう一度最初に大きな 枠組みに帰ってみると、お釈迦様がこの大経の最後に、「信楽受持することが甚だもって難い」というね、「難である」とい うことを特におっしゃった。その故に、こういうことが難しいということがあるから、阿弥陀はかくのごとく作(な)された んだ。そのかくのごとく作された歩みというものが、長い歩みなんですけどね、その原点―原点というのはいわゆる心の根っ こですよ―すべてをこれから行って行こうとする時の一番根っこの思いは、「たとえ自分は苦毒の中に身を置いても、そこで その苦毒の人間の正体を明らかにして行くという、その仕事に邁進して行きますよ。」この願いを心の底に持って、法蔵菩薩 は、それからずうっと歩まれて、このことを成就するための本願を終に建立できた。それが、四十八願。 結論から言えば、私たちはこの本願、四十八願によって必ず信心成就の身となるというわけです。そういういうよう なことが、まず第一にあります。 大経の内容を丁寧に見ていけばなかなか面白いところがあります。 皆さんご存知だと思いますが、先生の世自在王仏から面白いお話が説かれる場面がありますね。 法蔵菩薩も、本当にすべての人を救いたいと言う思いを先生に対して明らかに表明しています。 「先生、どうか、すべての人を救うことができる教えを私に説いてください」とお願いをするわけですよ。 しかし、先生は、なかなかそれは説かない。解らないから尋ねる。 それはそれで非常にいいことではあるけれど、解らないからといってすぐ尋ねてはいけなという面もあります。 「自分で考えろ」というわけです。いくら考えても解らなければ、またそこで尋ねるんですが。 先生の方は問題を突き返します。「あらゆる人が救われる世界というものを作りたいとお前は願った。それはお前が願ったこ となんだから、それはお前が考えろ。」というんです。で、問題を突き返して、その問題を突き返されるということがいいこと でですね。 問う側の心の密度が高まります。それまでは、なんかフワフワしているようなものかもしれません。 逆に、「自分で考えてみろ」と言われて、ぐうっと心が凝縮するようなね、強くなるというか。 まあ、そういうことがあって、法蔵菩薩は、それでは自分で考えて見ますと思ったものの、いくら考えてもこれはできない ということが解って、また新たにもう一度先生に「お願いします」と。こういう種の師弟間のやり取りというものは、普通の 私たちの中でもあるもんですね。 特に禅宗などでは入門が非常に厳しいと言うでしょう。 お願いしますと言って入り口のところで礼をする。礼をしたから、じゃあ、上がんなさいとは言わないんです。 知らん顔をする。一日も二日も三日も知らん顔をしとる。で、知らん顔をされたから、腹を立ててもう帰るというようなものは、 帰りなさい。本当にここで修行をしたいんなら、何日間知らん顔をされても 、許してもらえるまで、そこで頭を下げているという、そういうことがありますよね。 それによって、両者の緊張関係が段々と高まって行く。 ようしもう上がってよろしいとなったら、かなりもう、スタートから奥へ入っているかも知れませんね。 そういうようなことは、いわゆる師弟関係、教え、教えられる側であることですよね。それで、この法蔵菩薩が再度 お尋ねして、世自在王仏先生が答える、教えるわけですよね。それは、一言で言ったら、「あらゆる衆生を救うそのやり方」 なんですよ。あらゆる衆生を救う世界を作るやり方ですよね。 そのときの譬は、これまでも申したことがあると思いますが、大海の水の譬がだされます。大海があって、「一人(い ちにん)升量せんに」、この大海の水を一人の者、一人の人で升量して行こうとする。そしてついにこの水が無くなるまで升 量するというんです。升量というのは、一升枡で量るというわけです。一升枡で量るということは、一升枡も持ってきて水を 汲んでちょっとまだ足らんなといったらまた水を入れんといかんですよ。入れてちょうど一升になったらどこかに汲みだす。 そうしてきっちり一升。でまた汲みだす。またきっちり一升量って汲みだす。その「きっちり」のところが大事ではないかな と思います。 それで、こういう数値を出すんです。一升というね。誤差があってはいけないんです。ということは、そのことを繰 り返し繰り返して、ついに、いくら大海と言っても、その水全部をきっちりと量って汲みだす。そのことによって、大海の底 に宝がある。その宝をついに得ることが出来る。こういうような譬で先生が説くんです。 ここに、最初の法蔵菩薩の願いであった「諸々の苦毒の中に我が身を止めて、忍んで。」。忍んでは、これも以前申 しましたように、言偏をつけると認識するんですね。認識と言うことは解明するんですからね。明らかにするんですから、解 らないということが無いようにするんです。ああこうだったのかといって、はっきり明瞭にするんです。ですから、法蔵菩薩 の歩みは、この煩悩によって苦しむしか無いという大変などろどろとしたその存在のね、我々の中に来たって何をするかとい ったら、明らかにするんですよ。その明らかにする歩み、それが行。これを徹底してやって行くんです。精進の歩み。途中で 止まったり後退したりはしないんですね。休んだりはしない。それを徹底して生涯をかけてやり抜いて行くというのが法蔵菩 薩の願いですね。 これは法蔵菩薩自身が自分の願いとして先生に向けて表明したんです。先生はもちろんその表明をしっかりと聞いて いますよ。その表明の、弟子の覚悟と言うか、弟子が「宣誓」といって宣誓するような覚悟の言葉、それは物凄く大事。その 言葉のところから次の展開を先生は考えるんですね。 この大海の譬はですね、嘆仏偈のここで法蔵が言った言葉を、先生の方がもう一度確認する。「お前、さっき言った ことはほんとうだろうな」と。これ、本当なんですよ、これが。これでもういいんですよね。これでいいんだけれども、やっ ぱり弟子として、それから、まだ歩んでいない者として、不安というかね、まだ進んでいないんですから、どうやったらいい んだろうかという思いはあるわけですよね。だから、今、お前の言った通りの姿勢でやって行けばいいんだということなんだ けども、そこのところをやっぱり先生がその通りだと、お前が思った通りにやれと、そういうことを言ってもらうことが、ま た、大事になるわけです。 ですから、世自在王は、さっきの法蔵のあの覚悟を確認します。 それが、一人で一升枡を持ってきて大海の水を 量って汲みだす。 ここに現れているようにいるように思います。升量する。一升きっちり量るその明確さ、明 瞭さ、何を明瞭するのか、何を正しく認識するか。私の姿です。私とはどんな存在であるか 。 これを信心が私を照らして、私がどんな存在であるかということを明らかにする。 その信心になろうというのが法蔵の願いです。 こういう風にして、法蔵は信心成就という、真実の心の成就ということが一番難しい存在、人間というのは一番難し い存在、しかし、その真実の心が成就しないと、ついに、自己とは何であるかが解らないままに終わるんですからね、そこに 救いはありようがないんです。だから法蔵はどう考えたかというと、自分が行こうとしたんです。自分が彼のところへ行こう 、彼の存在の中に至ろうと。そこで本当の彼自身となろうと、ね。本当の主体の回復ですよ。それが信心成就ですね。 そういうことが、やがて如来廻向という形となって具体化して行くわけです。最初のオリジナルは―原点のところは ―そういうような感じでね、文章表現も生々しい感じがしますよね。それが、四十八願になると段々整理されて行く感じがし ますけどね。 そういう風に進んで行って、四十八願のところではですね、今のところが「大行」となろうと、ちょっと解りやすく 書けばね、大行、真実なるものの働きとなって自分はあらゆる人々のところへ成就しようというわけです。その真実なるもの の働きとなって自分はあらゆるもののところへ行くぞというこの思いの思い全体の表現を、南無阿弥陀仏というわけです。南 無阿弥陀仏となって至ろうとする。 名声十方に超えん。こういう風に言いますよね。名声十方に超えん、あるいは、名声十方に聞こえん。こういう二通 りの言い方で言いますが。名声というのは、南無阿弥陀仏の名乗りの声です。南無阿弥陀仏となってあらゆるものを救うぞと いう仏様の声。この声が十方に聞こえるように、十方=あらゆるものが、この声を聞くようにという願いです。 ー仏が私たちに頭を下げるということ「伏蔵(ふくぞう)」ー それで、親鸞聖人が、これは四十八願で言ったら、十七願です。 十七願、あそこですけども。ここのことを親鸞聖人 がいろんな言葉で色んな経典から引用なさってですね。一つ面白い表現があります。この、十方に=あらゆる 人に我が用き、この法蔵の用きを届けたいということなんでが、この「伏蔵」となってという表現があります。 「伏蔵」の「伏」は「伏せる」。伏せると言うんですから、頭を下げるということですよね。これは、聖典をお持 ちの方は、百五十八頁の終わりから七行目辺りですけどね。「伏蔵」となろうというこの表現ですね。 これは仏様の方が私たちに対して伏せるんです。頭を下げるんです。仏様が私たちに対して頭を下げて、「どうか、こ の南無阿弥陀仏を聞いて欲しい。」こういう言葉を、親鸞聖人が引用されるんです。 158頁の「行の巻」のところです。他の似たような言葉を聖人が引用されるその趣旨を 見てみると、どうも、親鸞聖人は、仏様が私に対して頭を下げて、私に対してお願いをしてくださるという形で、初めて 南無阿弥陀仏は十方の人に伝わって行くんだと読める感じがします。 親鸞聖人は、法然上人のところへ行って、「教えを説いてください。お願いします。」 と言ったんですが、実は法然上人の方が親鸞聖人に頭を下げて、「南無阿弥陀仏。これで皆が救われるんだよ。 どうかこの南無阿弥陀仏を聞いて欲しい。」と言って、四十歳年上の法然上人の方が頭を下げられたということなんです。 それに親鸞聖人が出遇って、そして気がついてみると、その法然上人のさらに背後に、七高僧の方々がみな頭を下 げて、親鸞聖人に「南無阿弥陀仏なんだ」と、「如来の廻向なんだ」と、「これで人が救われるんだ」。どうかこのことを 聞いて欲しい。というふうに自分に向かって頭を下げてお願いをしてくださっている。 このことを聖人は気づかれたんじゃないかなと思います。 この行の巻のこの箇所で、聖人が引用なさるのは、どうも、ここの言葉が突出しています。そういう風に読めます。 ですから、私たちが、今度、次なる人へ仏法を伝える。そのとき聞いて欲いではなく、小さな子供や孫に、「どうか聴いてください」 といって、大人の年配の方から頭を下げるんです。 ー頭が下がるということー 私も以前、私自身が仏法を聞き始めて一年くらい経ったときに、その教えを説いてくださっていた先生がですね。 ある会から帰るとき、玄関を出て行こうとして部屋の方を私が振り返ったら、その先生が正座をして、あれが伏蔵の状態だったんです。 そのとき、伏蔵という言葉を知らなかったんです。こんなのまだ読んでませんからね。それでもう、正座をして手をついて、良 く聞きに来てくれたなという趣旨のことを一言おっしゃってくれたんです。 その当時の私は右も左も解らないし、その姿だけは、物凄く強烈に印象があった。 なぜこの先生が、自分のようなどうなるとも解らんような貧乏学生に、そういう風に頭を下げてくれるのかということが理解できなかったんです。 しかし、それからしばらくして、この言葉に出遇って。ああ、これだったのかもしれない。伏蔵なんだ。両者の 間は物凄くある。あり過ぎるほどに差があけれど、先生の方は、どうかこれを聞いてくれと相手がどんな者であっても頭を下 げていく。 この姿勢が仏様なんです。本願の姿勢。これで伝わって行くんだろうなと知らされました。 そういう風にして、仏さま自ら頭を下げて、どうか我が名『南無阿弥陀仏』の用きに出遇って欲しいと、こう願っている。 そういうところに、まず、法蔵菩薩の願心というものが具体化している。 南無阿弥陀仏となってあらゆる人のところへ至ろう。 その南無阿弥陀仏の中に、信心もこめられてあるんです。 >>>つづく<< |
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