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春期 永代経法要 法話録 講師 岡本英夫師2007.05.28 前半 前回のお話より 前回、報恩講でお話しさせていただきました。その時に申しましたのは『大無量寿経』というお経は、親鸞聖人が「ここに真実あり」とこうおっしゃった経典です。 そこ説かれる真実なるものに出遇うことによって、私たちの本当の満足というか、よろこびというか、救いというものがある。 こういうことが一番の基本だと思いますから、私自身も、折角親鸞聖人による真実の教え、浄土真実の教えに出遇ったんです から、まさしく教えの根っこ、一番の基本になっているものを少しでもいただいていきたいという思いが私の中にあるのかと 思っています。 流通文 前回は、この大無量寿経の長い長い教えが説かれて、いよいよ最後になって、お釈迦様が、最後のまとめの教えを説かれる。分量にして一頁、二頁弱くらいの短い教え、それが「流通分(るづうぶん)」といいました。大経の流通(るづう)、リュウツウですね、 流通というのは、大経の教えを説かれたそのときに聞いている人だけのものにせずに、未来永遠に順番に伝えて欲しいと、そういうことを次なるものへ託するというのが流通分、流通といいます。これが最後のまとめの教えになっているわけです。それでどういうことが説かれているかというのは、前回見たところですが、見方にもよるでしょうけども、大きく三つに分かれています。 一つ目の問題 一つは、「名号」。名号というのは、如来本願の働きを名号といいます。これは名告りです。その仏様の働きを私たちが受け止めて行くところに、本当に大きな意味が起こった。この経典が全体をあげて顕らかにしようする一番根本のところです。その南無阿弥陀仏のはたらきをいただいて生きるところに私たちの本当の満足、楽びというものが興る。 そのことを最初に説かれます。ですから、これは全体を圧縮したまとめ、まとめにふさわしいまとめ、という感じがします。 この経を永遠にとどめる それから二番目にこういうことがありました。「止住百歳」。百歳は百年間。百っていうのはいわゆる百でなくて、万数でしょうから、永遠といってもいいでしょう。ずっとというような。「永遠にとどめる」。何をかといえば、今説いたこの経、無量寿、如来の本願、南無阿弥陀仏のはたらきを説くこの経典を永遠にとどめるという問題です。 それで、これはいかに経典といえども、それを説き聴かせるのは世間で暮らしす私たちです。この私たちというのは心の底に深い闇を持っている。その闇は、仏様に刃をむけるというか、仏様を無視してしまうような強烈な心を私達は持っている。仏様を否定して、自分自身の方を肯定し立てる。自分を善き者として、仏様を否定してしまうというような恐ろしいものを私達は持っている。そう言う私たちがいるから仏教は誕生しました。しかし、そういう世間へ真実の教えが説かれだすと、私達の無明煩悩の闇は深いものですから、ついにその教えを引きずり下ろしてしまう。仮に教えというものが残っても、教えとしての本来のはたらきをしないように力を引き摺り下ろしてしまいます。そういうことで、お釈迦様は、経道滅尽するであろう、この経典の道もついには人間の無明煩悩の前には滅んで行くであろうということをおっしゃったのです。 (09:10) しかしそこで、真実を説く大無量寿経、これが滅んだら、その後の人は救われる道は無くなるわけです。そこをどうするかという問題です。 ニ番目の問題。それでお釈迦様がおっしゃるのは、その文面から言えば、他の経典は仮に滅んだとしても、この大経が滅べば救われる人がいなくなるわだから、「私は慈悲の心を起こして皆さんのために、この経典だけは滅ばないように止住百歳、永遠にこの経典だけは止めておきましょう」というようなことをおっしゃる。 大きく言えば、まさしくそういうことだと思うのですが、具体的にはどういうことかというと。これが流通分の最後に出るということは、聞いている側の位置づけ、この設定はすでに大経の教えを聞いてきて、如来本願成就した人なです。もう最後の段階ですから。そうすると、一番大事な大経の教えを聞いて本願成就せしめられて救われた人が、この経典は滅んで行くであろうと言ったのでは、この大経はどうするかという問題になったときに、お釈迦様にすべてお任せして、「お釈迦様、なんとかよろしく。これだけは滅ばないようによろしくお願いします。」というような態度にでるだろうか。おそらく、そうでない、いや、おそらくではない、必ずそうではない。 (11:40) 本願成就せしめられてね、で、本願がいかに大事か、大経がいかに大事かということが解った人は、経典もやがて滅んで行くぞと聞くと、お釈迦様に対して、「お釈迦様、今度は、私たちがお釈迦様に代わって、全力を尽くして、この経典だけは滅ばないように守って行きます。」と、こういう人が現れるんだと。また、こういう人を生み出して行くのが、今説いたその大経の教えなんだと。こういう意味合いで、止住百歳、永遠に大経をとどめるというこの大事業を、ただお釈迦様がみんなのことを思って可哀想だからとなさるのでなくて、次から次に大経の教えに出遇って念仏申して生きる人が誕生して、その人その人が、「自分が力のあらん限りこの経典をとどめて行こう、守って行こう、伝えて行こう。」と。すなわち、「この経典をまず自らが頂戴して生きて行こう」というそういう人よ、どうか、現れて欲しい。「大経を自分でとどめて行こうという人よ、どうか、現れて欲しい」というのが、この言葉の、お釈迦様の言葉の本当のお心でないかと思います。また、現れて欲しいといっても無理をして現れるというんでなくて、それが必然の展開なんですね。念仏者というのは、そういう人のことなんだというわけですね。そういう強烈なポイントを押さえて、二番目のまとめがされていたわけです。 (13:51) そして三番目、ここが大事です。今回は、ここのところをもう少し詳しく見て行きたいと思うんですが。この三番目が大経流通分のまとめのいよいよ一番最後の教えです。この間、御正忌のときも申したと思いますが、一番最後の教えというのが、時と場合によるかもしれませんが大体の場合は、一番最後の教えは非常に大事なんです。理屈から考えてもそうでしょう。説くべきことが、話すべきことがあるから話すんです。それを話し終わったから、「終わります」という風になるんですね。 (14:54) ですから、色んな方の話をお聞きしていまして、終わるときに、パタンと断崖絶壁から落ちるように、それまではどんどんどんどん話して、急にもう「終わります」パタッとこう終わられる方がありますよ。ああいうもんだろうなと思いますよね。話しているときは話さなければいけないことがあるから、それは話す。話し終わったらもう無いんですから、「終わります、さよなら」っていうようなね。だけど、どうでしょうか。私達はなかなかその辺が、ひょっとしたら良く解らないというか。時計を見て、ああもう大体時間だ、もう三分、そろそろといって、筆箱やらなにやらなおして、というようなことがなきにしもあらずです。そうすると、終わりの態勢を自分でとると耳ももうちょっとね、「はい終われ、はい終われ」となるかもしれない。最後はやっぱり大事なのかもしれませんね。 (16:50) 最後は、「信楽受持の難」。信楽というのは真実信心のことです。仏様の真実のお心=真実信心を、私たちがいただく、これが一番大事なことになってくるわけです。「その一番大事なことが、一番、難である。」「難しい」と、こういうことをお釈迦様が最後に説かれる。 (17:55) そのときに、「難中の難、この難に過ぎたるはなし」と、こういう表現なんです。難ということを表す言葉が「難中の難、この難に過ぎたるはなし」。だから「信楽受持することは難中の難、この難に過ぎたるはなし」。面白い表現というか、随分丁寧に「難」ということを何度も何度も重ねて強調してるなっていう感じでしょう。ここのところは、信楽受持することが難であるということを言う前に、他にいくつかの難、難しいことをあげるんです。それは、「仏様にお遇いをすることが難しい」、「諸仏善智識にお遇いをして教えを受けることが難しい」、そういうようなことをあげるんです。 (19:35) そのようなものは、どの位難しいかというと。「諸仏善智識、仏様に遇うことが難しい」「教えを受けることが難しい」「仏様の通りに行ずることが難しい」、そういう難しさは「難中の難」という評価なんです。難しさを五段階で表したら、ちょっとそれは表せないけども、五段階で表したら、五が一番難しいね。「難中の難」ていうのはどの位でしょうかね、一かニでしょうね。それに対して、信心を私たちがいただくということは、この「難中の難」はもとより、これプラス「この難に過ぎたるはなし」という表現で、「信楽受持よりも、それを越え=過ぎた、これよりも難しい難はないんです」という、最高というか最大の表現でしょう。五段階の一かニの難しさは他のことの難しさ。信心を受持するというのは五段階の五。最高の難しさ。ダントツに難しい。格段の難しさなんです。「ちょっとプラスα」の難しいんじゃないんです。まったく違うくらいの難しさというね。そこのところを強調して、「信心を受持することはそれほどの難しさを持っているんだ」ということを知って欲しい、そういう位置づけで信楽受持の問題を受け止めて欲しいという、そういうメッセージなんです、これはね。 (21:50) だけど、「そうはいっても念仏申しておけばいいんだろう。」ということなんです。難しいというね。それで、親鸞聖人が、正信偈の中に、最初からずうっと大経、三頁から大経のことを聖人がまとめられて、その大経のことについては、十三頁まであります。十四頁からは、「印度西天の論家」といって七高僧の教えです。その大経の教えについて、聖人が正信偈でうたわれるその最後を見ると、十三頁の始めから見ますと、「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」。阿弥陀仏の本願念仏というのはどういう教えなのか、どういう世界なのかというと、我々邪見驕慢の悪衆生にとって、信楽を受持することが甚だもって難い。「この甚だもって難いと」いうのは、元の大経の言葉に帰せば「難中の難」でしょう。最後に、「甚だもって難し」、「難中の難、これに過ぎたるはなし」という。「無過斯」というのが「この難に過ぎたるはなし」です。 (24:20) ここのところは、当然といえば当然なんですけど、親鸞聖人という方はものすごくよく解っておられる。私でしたら「信楽受持甚以難」くらいで終わります。もうこれで難しいといっているから十分じゃないかという感じがします。けれどね、聖人は、「その難しさは、さっきいった他の難しさとは格段に違うんだ。人間の最大の問題点がそこにあるんだ。」というね。ここに気づかないといけないんですよ。 (25:08) その気づかせるための表現ですよ。大経がそういう風におっしゃった、大経のお心を、親鸞聖人はきっちりと受け止められて、正信偈という字数の限定された枠の中でも、そこはカットしないんですよ。ねえ。これはすごいなと思います。 (25:38) そういうのが、最後、三番目に出る。しかし、この「信心を頂戴するのが難しい」ということを一番最後に言われても私たち困りますよ。「そりゃあ、難しいのは解った。だからどうしたらいいのかと思って話を聞いているんだ。」ということですからね。で、最後は、その難しさを乗り越える方法を、その辺りを最後に説いてくれれば、「ああ、よかった。」ということで終わるんですけどね。最後の最後になって、「難しい、終わり」というんではね。 (26:35) それで、難しいということはどういうことかですね。そういう問題があるんですが、この文章「これに過ぎたるはなし」とあって、その次に、いよいよ最後の言葉、「この故に、我が法は、かくのごとく作(な)し、かくのごとく説き、かくのごとく教う」と、こういう言葉があって、で、さらに、「この教えに信順して歩んで欲しい」と言って終わるわけですね。 (28:07) それで、これはどうでしょう。今、流通分で三つのまとめをしまして、その次に、「この故」にとあって、こういう訳で、「我が法」は、というのはお釈迦様ですよ、「我が法は、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う」っていうんですね。だから、この三つで表されているのが、今お釈迦様が説かれた大経全体のことなんですよ。これはものすごく面白い表現です。目が覚める感じがします。 (28:57) このそれぞれ三つはどういうことかということの前に、一つ、ちょっと解りにくいところがあって。「この故に」というのがちょっと解らないんですよ。これは、講録(こうろく)を見ても何通りも解釈があります。一つの考え方は、「流通分を三つでまとめたこういう内容がある。だから、三つを受けて、自分はこういう風に説いたんだ。大経をこういう風に説いたんだ」ということかもしれません。あるいは、「三番目の、信楽受持が難であるという大問題が人間にはある。その大問題を解決さす、解決するためにという意味、この故に」、なのかもしれません。 (30:18) 三つとも含めても、三番目は入りますからそれでいいんですけども。私は、少し焦点を明瞭にするために、「三番目のところを受けて、この故に」と、こういう風に読んでみてはどうかなと思います。何通りにも読んでみるわけです。 問題は、私たちにとって一番大切な信心を、仏様の真実の心を頂戴するというこの一番大事な問題、その信心成就ということがなければ、南無阿弥陀仏も成就しない、救いは起こらないんです。しかし、その信心を頂戴するということが最大の問題、他の難しい問題を群を抜いて難しい問題。そういうのが人間の問題としてあるんです。ここを解決しないと、人は救われませんというわけですよね。 (31:36) そういう問題があるから、それを受けて、「この故に、私は大経においてこういう風に説いたんです」。ですから、大経を説くお釈迦様は、次はどうなるか説いてみんと解らんぞというんではないんです。最初から一点、テーマは一点、それは「信楽受持」ということです。いかにして、無明煩悩の我見を持った人々の上に、如来真実の心を成就するか、この最大に難しい問題をいかにして成就するか、これが、お釈迦様が大経を説くに際しての一番深いテーマですね。ここから外れたらおかしくなる。真実の経典とは言えなくなる。そういう根本のテーマ一点をお釈迦様は持たれて大経を説かれた、こう見てはどうかなと思います。そうすると、非常に、こう、すっきりします。 (32:55) じゃあ、そこで、この三つはそれぞれどういう意味かです。いずれも、「かくのごとく」という同じ表現ですから、「かくのごとく」という言葉で指し示しているのが同じものような感じがしますが、これは全部違うように思いますね。違うというのは、「作な)し」「説き」「教う」、ここが違いますからね。やはり、「かくのごとく」も違うように思います。ここのところも、先輩の方々の受け止めは色々あります。これ表現が短いでしょう。こういうのは困るんですよね。表現が短いと、これを紐解いて行くと色々誤差がでるわけですよ。 (33:55) で、まあ、私自身、今のところ思っているのは、「かくのごとく作し」、これ、誰かが何かをなしたんですね。「なした」という行為そのものを指しているんです。次は、「説いた」んです。これはお釈迦様が説いたんです。何かを説いた。そして「教う」。これは似てるんですけども、「説く」と「教える」は、やはりニュアンスが違います。まず「かくのごとく作し」は、だれが何をなしたのか。「法蔵菩薩が四十八願を建立する歩みをなした。」、これでないかなと思います。その事実があるんだとね。一言で言えば、「真実なるものが、私たちを救わんと働きかけている」という事実があるんだ。その事実を指すんですね。その「真実なる者が働きかけてくる」ということを、そういう表現ではよく解りませんから、仏教ではそこを、逆にものすごく良くわかるように表したのが、法蔵菩薩の歩み、ということですよね。あんまり解りやす過ぎて、逆に囚われて、解らないようになるかもしれません。ある意味で、想像力をううんとこう発揮して、といいますかね。 (35:40) その法蔵菩薩は、一番根源の真如の世界が私たちを救わん=救おうと、大悲心=大悲の心を起こして立ち上がって、そこで、自分は今から、自分というのは真如ですよ、真如が主語なんですよ、ちょっと想像しにくいかもしれませんけど「真如=真実」が主語なんです。真如が私たちをご覧になって、「大変な存在だ」と、「この者を救わなければいけない。」といって立ち上がって、「自分は、今までは、真如といういわば永遠の仏であったけれども、今から菩薩となってあらゆる人々を救うための歩みをする」と、「真如が法蔵菩薩と自ら名乗ったんだ」と、親鸞聖人は受け止められたんです。まあ、すごい、ねえ。で、それが、真如が私たちに働きかけてくる、そのときに、法蔵菩薩、正式というか厳密には法蔵比丘というんですけど、言葉慣れした方でいうと、法蔵菩薩ですね。 (37:55) この世界は、それこそ光=神も仏も無いというか、光がまったく無い世界だというのではなくて、まったくそうではなくて、神も仏もあるというか光があるというか、真如の、その真実なるものが、私を救わんと働きかけている、その、働きまします世界なんだ、というわけですね。ですから、これ、何度も申してきたと思いますが、親鸞聖人はご晩年に、その真如が立ち上がったところを押さえて、「この深い闇を持った私たちを救わんと思し召し立ちける本願」とおっしゃったんですよ。「この私を救おうと思われて立ち上がられた本願、その、なんとかたじけないことであるか」とね。そこのところを親鸞聖人はご晩年毎日毎日おっしゃっておられた。「聖人の常の仰せ」だったというんですねえ。 (39:11) 私のために、真実が立ち上がって、「お前を救うぞ」と歩んできてくださっているんだと。そういう真実なるものの働き、大経はそれを法蔵菩薩の歩みということで具体的に私たちによく解るように表してくださった。それがあるんだということです。かくのごとく作し。「この世には真実の働きがあるんですよ」という、それがまずあるわけです。これは、お釈迦様が教えを説く前にあるんですよ。その、「かくのごとくなされた、あるいは、なされた法蔵の歩み」に、お釈迦様も気づかれたんですから。それが、お釈迦様の覚りだと思いますね。それが二番目。おしゃか様自ら気づいた法蔵の歩みというものを、自分が気付いたとおりに説いたっていうんです。それが大経です。大経の正宗分の教えです。三番目 そして、三番目が、「教う」というのは、これが最後流通分になりまして、今、三つ言ったでしょう。流通分になって、ずっと正宗分=本論で説いてきたことを、正宗分が終わったらもうそこで説くべきことは説いたのですから終わってもいいのですが、最後にまとめをなさったんです。まとめをして大事なポイントを重ねて説くことをなさった。 その重ねて説くというのを「教える」とこう言い表しているのではないかなと思います。「一度説かれたことを、もう一度ポイントを押さえて親切に教えてくださった。」というようなニュアンスではないかなと思います。だから、「教う」の「かくのごとく」は、流通分の内容ですね。そこは重ねて教えられたことですから、とても大事なことです。その教えられたものの最後に、今の「信楽受持が難である」という、そういう問題がある。 >>つづく<< |
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