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春期 永代経法要 法話録 講師 岡本英夫師 <<2007/5/29 後半 >> 大経を説かれるその根本の心の中に、先ほどの流通分の三つの内容、非常に大事な内容があるが故に、そのことを成就すべく法蔵菩薩が歩まれ、その歩みのことを自分が説き、さらに重ねてポイントを押さえている。そういう三つのことを受けて、「この故に」、これが一番オーソドックスなやり方だろうと思います。 さらに、もう一つポイントを押さえて言えば、その三つの中の一番深い問題が信楽受持の問題ですから、この信楽受持することが大変難しいという問題がある。 その故に、この信心成就の問題を解決するということを最大のテーマとして法蔵菩薩の歩みがなされ、自分はそれを説き、さらに、そこが最大の問題なんだということを教えるんです。 こういう風に見てはどうかなと思います。 その法蔵菩薩が歩まれたお姿というものにお釈迦様は出遇って行かれた。 その法蔵の歩みがなされたという事実。 しかし、その事実に出遇うというのか、それを発見する人がいなければ、私たちにもまず解りません。 ですから、お釈迦様が現れて、法蔵の歩みの事実に出遇うことができたということが、本当にありがたいことです。 見えないところにじっと蓄えられてあった真実のはたらきにお釈迦様がついに気づいた。 だから、人類はついに気づいたんですよ、その真実なるもののはたらきに。 その最初がお釈迦様であったということになるでのでしょうか。 それを、お釈迦様が自ら気づいたごとくに説いたというわけです。 (03:00) では、どういう歩みを法蔵がなし、そこのところをお釈迦様がどう説かれたかが問題になります。これが、私たちが如来の本願のはたらきをいただいていくという上で一番の中心点になるところです。 親鸞聖人もそこを中心にして浄土真宗というものを顕らかにされています。何度も申し上げるのですが、そこをちょっと見てみましょう。 (04:00) この四十八願で、法蔵菩薩が私たちを救おうとして、ついに四十八願という本願のはたらきによって、間違いなく私たちを救うことができる。では、いったいその四十八願はどういう内容になっているかということですが。この辺りのところは、、貪欲に突き進んで欲しいと思います。 そこで一番中心になるところを申しますと、一番の前提となるのが、第十一願というのがあります。これは人間の本当の救いは何かということを顕らかにして、その本当の救いを成就させたいという本願なのです。それは簡単に言えば、さっきからいっている「真実に遇う」ということです。 しかし、そんなに最初からよく解らないかもしれない。真実に遇うということがよく解らないのと同時に、なぜこれが人間の救いになるのか。というよりも、世間的な地位や名誉や金や愛情。そういったものに満たされた方がいいのではないか。 と思うのが普通ではないかと思います。 しかし、 本当の救いは真実に遇うこと。では、その真実に遇うといっても、私達は真実ではありません。真実でないものが真実に遇うというのは、ちょっと考えられないことです。 具体的に言えば。たちの中の真実でないものといえば、全部ということになります。 よく聞く言葉に煩悩は無くならないとよくいいますね。煩悩や我見は無くならない。悪い奴は無くならない。我々の煩悩やそういうものを、無くすということはできない。ただ転じるという方法がある。 これが仏教が提出する方法です。「転じる」というのは、質を変えるということです。ですから、簡単に言えば、我々の欲やそういう世間的ないろんなものをどんどんと欲しがる欲。その欲というものがあるわけです。 欲といったら悪いものの代表のような感じで欲ということを使いますが、そんなことはありません。これは「貪欲」になるから、貪(とん/むさぼる)欲だから問題なんですね。 これが、『浄土に生まれたい』という欲になる。浄土を生きたい。阿弥陀の真実の世界を生きたいというのも、欲です。 欲そのものは、人間が生きるということを決定するものです。一番根本から支えているものです。ただ、その欲の質が変わる。 自分中心、世間的なものを貪って行く欲なのか、真実の世界を生きたいという欲か、そういうふうに変えられて行く。 貪欲が「欲生」へと、『浄土へ生まれんとする欲』へと変わる。 そういう形で、私たちは真実に出遇って行く。それが、私たちのこの一生涯、何十年の一生涯の具体的な姿。一言で言えば「悪」、そういうものを教えによって照らし出さる。 その悪は、煩悩にしても我見にしても、それが仏様の真実を謗っている心ですから、その仏様こそが私を救う力です。その唯一の力である仏様を、こともあろうに、私が謗っている。そういう自分だったということに気づいて、「南無阿弥陀仏、申し訳ありません。」と念仏に変えるところに、私が転じられて行くのです。 (13:29) そういうのが、毎日毎日の、具体的なあり方なんです。そういうことをしばらくやったから、私の煩悩はきれいに無くなりましたと、そうじゃないんですよ。毎日煩悩は元気になって出てきます。昨日もいいましたように、朝、目が覚めたら試合開始のゴングが鳴るようなものです、煩悩との戦いの。昨日は相当やっつけたはずなんだけど、朝になったらまた元気になっている。これが毎日です。だから、毎日、どんな日であろうとも、色んなことが起こった、そのことを、南無阿弥陀仏の光に照らされて行くことができる。昨日もできる、今日もできる、明日もできるというのが、救われている姿なんです、ね。 (14:34) そういう形で、私達は具体的に真実に出遇って行く。そういう風に念仏申して歩んで行く行き方を、「正定聚不退転の姿だ」というんですよね。こういうことが仏様において、法蔵菩薩の歩みにおいて、法蔵菩薩が私たちの隅から隅までご覧になってね、この人間存在において何がどうなることが本当の救いかということを、法蔵菩薩が初めて明らかになさったんです。私達はよく解らない。救われていないんですからね。迷っている、苦しんでいる、そこに何が救いかということは、衝動的には色々思うでしょうけどね、本当の救いというのはよく解らない。それを、真実であるが故に仏様が、明らかにしてくださったんです。 (15:38) そういう形で真実に出遇うという救いの事実を、じゃあ、いかにして一人一人の上に成立さすかということで、本願が次々と建てられて行くわけです。一番の中心というか、機軸になるのが、第十七願。さっき流通分のまとめの一番目に「名号」というのがありましたけどね、あの名号、これが、真実の働き。仏様が、仏様っていうのはこの真実のことですよ、この真実の仏様が私たちに向かって力を及ぼしてくる。私たちを救おうという力を及ぼしてくる。その力。その力を持った働き。それを南無阿弥陀仏というわけです。 (17:00) 仏ご自身が、南無阿弥陀仏と名乗って私たちのところへ来(きた)る。その働きに、私という存在が、この私の全存在をあげて南無阿弥陀仏の働きを受け止める。真実の働きを受け止める。ここに救いが起こる。これは非常に簡明なね、それが第十七願ですね。 (17:37) ですから、「私たちの救いはどこにありますか?」「南無阿弥陀仏とお念仏申すところにあります。」もう、これ以上付け加えることは何もありません、ということなんですよね。 (17:57) もう、第十七願だけでいいんです。それで、親鸞聖人がこの四十八願を受け止められるときに、最初が「教の巻」でしょう。「教の巻」というのは、「何が真実の教えですか?」、それは、「この本願を説いた大無量寿経が真実の教えですよ」と言って、「その大無量寿経の中に、本当の『行』、名号、如来本願の働きが説かれてありますよ。その仏様の働きをいただくところに私たちの救いが起こるんですよ。」と言って、ここですべて完結です。その完結したという印が、正信偈なんですね。 (19:01) ところが、これは昨日の夜申したことですけど、ここで正信偈がありまして、「ところが、大問題が一つあるんです」と言って、今の「信楽受持すること甚だもって難い」ということが、ここで出されるんです。 (19:30) ですからね、ここのところはですね、昨日も図を書いたんですけどね。仏様の働き、南無阿弥陀仏という仏様の働き、これを「大」、「大」というのは真実、真実の行ね、「大行」といいます。この大行を私たちが頂戴する、ここに救いが起こる、もうそれだけなんです。けれども、この大行を私たちが頂戴するという言葉の中には、実は、この大行は、内に真実の心を持ってでなければ真実の行は頂戴できないんだという原則があるわけですよ。真実なんかどうでもいいやと思っている心で、真実の働きを頂戴できませんからね。その真実の心もその人の中に成立して、それでもって、大行を頂戴するということ、その一言で納まるわけですね。大行、念仏申す、それ一つと表現するときは、その人においては、真実の心も成就してね、真実の心で念仏を受け止めることができている。だから、念仏一つとなるわけです。 (21:16) しかし、心が真実の心でなければ、いくら念仏申しても、念仏の本来の働きはそこで起こっていないんです。だから、いくら念仏してもぱっとしないな、ということになるんです。「念仏申しそうらえども、踊躍歓喜の心おろそかにそうろう」というね、あの唯円さんのおっしゃったようになるわけですね。これが、私たちの問題。この問題が内にあるんですよ。「大行の働きを受ける人間において、『心が真実か』という問題が、人間が持っている最大の問題なんですよ。」ということを親鸞聖人が出すんです。問題を出したんですね。 (22:07) だから、正信偈は、そういう問題が全部克服されたところでの内容です。正信偈をご覧になると、この信心の問題も一杯でてきます。もう信心成就したところでの念仏ですから。 それを言って、その次は、「念仏申すという行為が内に持っている大問題、これが克服されないと念仏は念仏として成就はしません。こういう問題があるんです。」ということを、親鸞聖人がだしているのです。 その信心の問題がはっきりすれば、本当に念仏成就、「南無阿弥陀仏、ありがとうございます」と、そういうことが起こる。信心のところがあいまいだったら、念仏もはっきりしないんです。 折角念仏申すまでになったのに、以前は念仏さえ申さなかった。それが折角、ご縁に遇って念仏申すようになったの生き方が決定しない。 そうすると念仏の申し方が足らんのかな、では昨日は百回、今日は二百回にしようかなとか、そういう問題になるかもしれない。 問題はそうことではなく。「信心、心の問題。」ですよと、念仏成就の本当の道を親鸞聖人が明らかになさったのです。 では、一応ここまでで終わりにします。 >>つづく<< |
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