■ 2007年 1月 ■
宗祖親鸞聖人御正忌報恩講特集

「親鸞聖人って、どんな人?」ーその2ー

[2] 山を下りる

9歳から29歳までの多感な少・青年期を比叡山で過ごします。
天台宗の開祖、伝教大師最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)によって開かれた比叡山は、大乗菩薩道の根本道場として栄えていました。
親鸞聖人は生前にたくさんの書物を残しましたが、その中で自分のことを語っていません。ですから、そこでの生活もくわしくはわかっていませんが、後に横川の常行三昧堂の堂僧だったことが、大正時代に西本願寺で見つかった妻・恵信尼の手紙(恵信尼文書)で明らかになっています。
常行三昧堂とは、90日間、堂の中にひとり籠って、阿弥陀如来の周りを回りながら不断念仏(休むことなく、絶えず念仏する行)をする身分の僧だったということがわかっています。
親鸞聖人は比叡山の北、横川というところで天台宗の教学はもちろんのこと、比叡山に伝わるさまざまな修学に励み、みるみる力をつけました。
のちの著述からもわかるように、このころの修学が基礎になっているようです。

しかし、その後、親鸞聖人は山を下りる決意を固めていくことになります。それは20年かけても覚りの道を見出すことのできないという、聖道門の仏道への行き詰まりとジレンマ。
行く先の見えない自身の道を案じていたのでしょう。
いよいよ「仏道とはなにか」ということに対してこたえを深い実感をもって得られないあせりがあったのでしょう。
その上、本来大乗の菩薩道としての道場であるはずの場が、戦や飢饉などで悲しみや苦しみに喘いでいる人々の現実と遠く離れ、ただ自身の学問の世界にのみ閉じこもる僧たちの集まりになっていました。
そんななかででいっそう不安感が募ったのかもしれません。

 さらに時代は大きくうねっていきます。寺院は広大な荘園をもつ貴族社会との結びつきを強くし、次第に僧兵とよばれる武力まで持つようになっていきました。 根本道場は権力者の現世での加持・祈祷(かじ・きとう)や戦勝祈願、息災延命を行う場になっていったのです。そういう状況に対しての疑問が、親鸞を山から下ろすきっかけになっていくのです。