■ 2007年 2月 ■
宗祖親鸞聖人御正忌報恩講特集

「親鸞聖人って、どんな人?」ーその4ー

[4] 承元の法難と専修念仏

しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、
定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。


「教行信証 信巻」(真宗聖典P210)



それから6年間、親鸞聖人は法然のいた吉水教団(現在の京都、東山)で専修念仏の教えを学びます。 そして35歳の時、人生を大きく変える事件、承元の法難(承元元年1202年)が起こります。
法然上人のもとには、身分・性別・年齢をこえ、さまざまな人々が上人を慕い集まってきていました。
念仏を唱えれば、どんな者でも浄土に往生できるという法然上人の教えは、解りやすく、あらゆる人に平等に開かれた教えとして世間に広まります。
それは当時としては革命的な出来事でした。これまであった仏教観、加持(かじ)祈祷(きとう)などを行う特権階級者や出家者だけが、浄土に往生できるといった傾向が強くなってしまったこれまでの仏教観に対し、法然上人は弥陀の本願はあらゆる人に平等に開かれたものであると聖道門(しょうどうもん)の仏道を批判しながら、法然上人のもとに集まってくる権力者にも、民衆にも差別なく仏教を伝えていきました。

その様子を観ていた朝廷や、奈良の興福寺の学僧たちの間で、自分たちの地位をゆるがしかねない専修念仏の広まりに対して、しだいに危機感が募りはじめます。そこで奈良の興福寺の学僧たちは、専修念仏は仏の教えに背くものだとし、朝廷に直訴状(興福寺奏状など)をだします。
法然上人は弟子たちに興福寺や朝廷には歯向わないよう制止させ、奏状に書かれた様々な要求をのんでいきます。しかしそれも空しく終わり、後鳥羽上皇は、法然上人以下、弟子7人の僧籍を剥奪し俗名を与え、法然上人は四国・土佐に流罪(るざい)。親鸞聖人(罪名・藤井善信)は越後の国(新潟県)へ流罪になりました。
うち住蓮房・安楽房以下4人の弟子を死罪、一人無罪、念仏停止と教団解散という厳しい勅命を下しました。

専修念仏の広まりを見た興福寺の学僧の間に危機感があったということは、真に民衆を解放する仏道であったために法難が起こった、といえるでしょう。
聖道門の考え(努力して覚りを得られる仏道)では、努力の叶わない、底辺で苦しむ人は永遠に救われていかないということになります。
そういったことにアンチテーゼをなげかけた親鸞聖人と法然上人の教えは民衆に広く受け入れられていくのです。
この時代は、親鸞聖人がいうように、「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は興隆いま盛りなり」(真宗聖典p398)という、「浄土教興隆の時代」だったといっていいでしょう