■ 2008年9月 ■
「往生って、なあに?」

<往生>
浄土世界(仏国土)に、「起こる・生ずる」(up√upa)。
           「達する・生ずる」(upa-√pad)
           「再生する・転生する」(praty-a-√jan)
という三つの言葉で表現されていますが、どれも『生まれる・転ずる』という言葉を使って(浄土世界に)往き生まれることを指しています。
    一般的にいわれる「死」というニュアンスで往生という言葉は説かれていません。
時間的にいえば、前世ではなく来世に到達される世界であり、浄土に往くことを「生まれかわる」と表現することから、化生(けしょう)ともいわれます。
転ずるなど、質の変化を意味する言葉として受け取られています。

この往生・化生という二つの表現は、原始仏教において用いられていたもので、化生は四種に分けられます。

胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
卵生 鳥類のように卵から生まれる事
湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
化生 過去の業(ごう)によって生まれること。

仏教では、生きることは迷いの連続であると説きます。
そういったことから、往生とは迷いを離れた真実世界(浄土)に「往き生まれる」または「帰る」ことと経典には表現されています。

<『天に生まれる』というかんがえとの相違>

仏教でいう「天」とは、六道というこの迷いの世界の中のことをいいます。
われわれは浄土に往生しないかぎり、いつまでもぐるぐると同じ迷いの世界を経巡り、その輪から外れることがないのだと説かれています。
これに対して浄土に生まれるというのは、その迷いの世界を離れる・超えると表現されています。
そして、二度とそのような状態に戻ることのないことから、浄土世界は不退転地ともよばれています。

そういったことから、ただ単に生天思想が発達して浄土往生の思想が成立したものではありません。

 人には「生まれ変わりたい」という願望があります。
その心の本質は端的にいうならば、「仏に成りたい」というこころです。
その衆生の願いを如来は、引き受けてくれるのです。それが『往生』ということばです。
私たちの世界は煩悩に満ちあふれ、「生きる」ということそのものが煩悩であるといってもいいほどですから、生きている以上、決して仏に成ることなど出来ないのです。 そこで、我が名を称える(南無阿弥陀仏と称える)者は、必ず浄土に生まれるのだと説かれるのです。
そのことを『往生』と呼ぶのです。