■ 2009年5月 ■
「念仏って、なあに?」

寝ても覚めてもいのちのあらんかぎりは
称名念仏すべきものなり。       御文


一般的には、浄土教系の宗派教団において、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を声に出して称えることを称名念仏(しょうみょうねんぶつ)といい、略して念仏といいます。 念仏は、阿弥陀仏には大慈・大悲・大光明があり、それによって、生きることに悩み苦しむあらゆる衆生の苦を救うと思い、自分もまたそのような仏とならねばならないと仏を念ずることを意味しています。

仏・法・僧を念ずること。
大乗経典には、それぞれの方法で仏を念ずる方法が説かれています。

臆念念仏(おくねんねんぶつ)・・・・・仏の心を刻み付けて忘れず、常に思い出すこと。
観想念仏(かんそうねんぶつ)・・・・・仏の相(すがた)を思い浮かべること
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)・・・仏名(南無阿弥陀仏)を声に出して称える

の三種類があり、観無量寿経においては観想念仏が勧められています。
七高僧の第二祖、中国の善導大師は、観想念仏のような高度な修行は凡夫の我々には出来ない修行であるから特に必要ではないといわれています。
また善導大師は憶念念仏と称名念仏とは同一であるとして、称名念仏することを勧めています。
念仏は基本的には特別な修行や寺院・堂や仏像・仏画は必要ありません。
また、善導大師は場所や時間、身分や出家・在家を問わず、誰でもいつでも何処でも念仏できるということから、もっとも勝れた行であるといわれました。
法然上人は、凡夫が仏に成るための唯一の行とまでいわれ、『唯念仏/ただねんぶつ』の教えをもって衆生を教化されました。
しかし、当時の仏教界の主流の考えは、努力精進して覚りを得るというものでした。
そのため、念仏を称えることによって浄土に往生するという修行法は、どのような修行も叶わない劣った人の最終的に行き着く修行方法であると考えられていました。
それゆえに浄土に往生できるひとは努力の叶った人が生まれることが出来ると考えられてきました。
法然上人は、そのような考えは「弥陀の本願にあらず」といわれ、


  念仏は唱えやすいので平等であり一切に通じている。諸行は難しいので選ばれた人のみである。
  ならば弥陀は一切衆生を平等に往生せしめんがために、難行を捨てて易行を取って、本願としたのか。
  もし仏像を造ったり立派な塔を立てることが本願というのならば、貧しさに困っているものは往生する望み
  を絶たなければならない。
  しかも豊かなものは少ないが、貧しい者はははなはだ多い。
  もし勉強や頭のいい者が往生できることが本願とするならば、愚かで知恵の劣った者は往生の望み
  を絶たなければならない。
  しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多い。
  もし仏法を多く聞いたり、仏の姿を多く見た者が往生できることが本願というならば、少聞少見の輩はさだ
  めて往生の望みを絶たなければならない。
  しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多い。
  もし戒律を立派に守った者のみが浄土に往生できるということが本願というならば、戒律を守ることが出来
  ない人たちは往生の望みを絶たなければならない。
  しかも戒律を保つことの出来る者は少なく、戒律を守ることの出来ない者ははなはだ多い。
  それぞれの機に准じて行があるできである。
  まさに知るべし、これらの諸行等をもつて本願とするならば、浄土に往生を得るものは少なく、往生出来な   い者は多い。
  ゆえに弥陀はただ称名念仏一行をもつてその本願としたもうたのである。

と『選択本願念仏集/せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』でいわれています。
そういうことから、念仏は平等に浄土に往生できる阿弥陀如来の願いに適った勝 れた行なのです。