字:住職 亀井 廣道
■ 2007年 8月 ■
悲岸はたとえば妙蓮華の如く 一切世間の法に染せられざるがゆえに。
仏の覚りは、世間の法よりも気高く、まるで汚泥の中に咲く蓮のように、世間の一切の法にも染まることがない。
浄土三部経を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)というひとがこう謂われています。
たとえば、臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし
ただ、蓮華を執りて臭泥を取ること勿れ
蓮華とは仏の覚り、仏の真実の言葉です。
一方、朱に交われば赤くなってしまうのが我々ですが、仏の真実の言葉はどんな世界であっても決して染まることがありません。
しかし、蓮華は汚れて底の見えない濁った泥の中にしか咲かないのです。
泥が無くなれば蓮華の花はとたんに枯れてしまいます。それは、煩悩のあるところににしか覚りはないということです。
もっといえば、汚れた世間だからこそ、真実の言葉はさらに輝くのです。鳩摩羅什には妻や子どももいて、世間のただ中でいきている。自分は泥まみれの凡夫であるが、私の訳した経は真実だと言われる。
鳩摩羅什が経を真実だと感じられたのは、自分は泥のような者だったと自らの姿を教えられたからです。