西暦 |
年号 (時代) |
主なできごと |
1460年 |
寛正元年(室町) |
蓮如、近江金森道西の求めにより、『正信偈大意』を著す。
6月 蓮如兼壽応永22年(1415)〜明応8(1499)84歳。室町時代の浄土真宗の僧。本願寺8世。 「真宗再興の上人」といわれる。
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1461年 |
寛正2年 (室町) |
《寛正の大飢饉》京中の餓死者8万人という。幕府の財政窮乏し、五山から巨額の融資を受ける。
『3月 蓮如、はじめて『お文』を書いて門徒を教化する。
7月 蓮如、『教行信證』(延書き)を書写して近江栗太郎安養寺浄性に下付。
11月 親鸞二百回忌 |
1462年 |
寛正3年 (室町) |
山城の土一揆 京畿の土一揆 |
1464年 |
寛正5年(室町) |
高田派10世の真慧、伊勢の高田を後にして一身田に移転 |
1465年 |
寛正6年(室町) |
◇1/8 叡山西塔院勅願不断経集会が本願寺撤去を決議し、本願寺破却を通達する。
◎1/10 延暦寺僧徒、本願寺を襲撃。連如、逃れ近江堅田に至る。
◇延暦寺僧徒つづいて近江赤野井門徒を攻める
◎近江に一向一揆はじまる。(〜1567) |
1466年 |
文正元年 (室町) |
◎8/5 蓮如、興福寺経覚、越前朝倉氏と交信、越前出向の条件を整える。 |
1467年 |
応仁元年(室町) |
◇5/26 応仁の乱起こる。(〜1477)
幕府政権の失墜によって戦国大名が各地に起こる。
細川勝元(東軍)と山名持豊、畠山義就(西軍)が諸国の守護をまきこんで衝突、京中で市街戦が行われる
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1468年 |
応仁2年(室町) |
◎3/29 延暦寺衆徒、近江堅田を襲う。→堅田衆、琵琶湖沖島へ逃げる。 |
1469年 |
文明元年(室町) |
◎春 大津、三井寺南別所に本願寺坊舍を建て、顕證寺と称する |
1470年 |
文明2年(室町) |
◇8月 興福寺衆徒、大和の法華宗徒を討つ |
1471年 |
文明3年 (室町) |
◎7/27 蓮如、越前吉崎に下向、坊舎を建てる。
ポルトガル船、赤道通過 |
1472年 |
文明4年 (室町) |
◎1月 蓮如、門徒が吉崎坊舎に群参することを禁止する
◇6/21 高野山で「声明集」改版される |
1473年 |
文明5年 (室町) |
◎3月 蓮如、「正信偈」・「三帳和讚」を開版
ニコライ・コペルニクス(〜1543)東プロシャ(現ポーランド)のトルンに生まれる。 |
1474年 |
文明6年 (室町) |
◎3/28 本願寺吉崎坊舎焼ける。
◎11/1 これより先、加賀で一向宗徒、蜂起して守護富樫政親の部下、守護代小杉某を討つ
宗徒も約2,000人が死ぬ。一向一揆始まる。
※[幕府] 朝鮮に遣隋使を派遣、勘合符を獲得 |
1475年 |
文明7年 (室町) |
◎3/下旬 加賀の本願寺門徒、富樫政親と戦う。
◎5/7 蓮如、加賀武士の圧迫を配慮し、門徒に十箇条の制戒を示す
◎蓮如の軌跡、│ │7/16加賀二股→越中瑞泉寺
│ │8/21吉崎→若狭→摂津→河内出口着
◎近江堅田の法住、本願寺坊舎を建て、蓮如に寄進
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1477年 |
文明9年 (室町) |
◇11/11応仁の乱、ほぼ終わり、諸将帰国す。
→応仁の乱は従来、畠山義就が河内・大和を制圧して京中の戦火が一応おさまったこの年をいっていた。しかし1485(文明17年)山城国一揆までが応仁の乱であるとみたほうがいいのではないかという視点が注目されている。
◎綸旨を下し本願寺門徒の加賀寺社押領妨を制止する
カスチラ、カナリヤ諸島を占領
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1478年 |
文明10年 (室町) |
◎3/12 高田専修寺を勅願所とし、真慧に上人号を下す。 |