春期 永代経法要 法話録 講師 岡本英夫師 2007.05.28 逮夜/後半 2、自己が照らし出される歩み (1)どう歩んでいくのか、化身土巻の問題 その1)<二番目の問題>何が真実のこころなのか。ー「信心」の問題ー そこで、問題になったものは私の心。一応、念仏は申すようにはなりました。しかし、かつては「誰があんなことを口に するものか」というこころの状態もありました。 それが段々と申すようになっていった。しかし、まだまだ私のこころそのものは仏にはあけ渡さない。そこだけはしっかり守 っておいて、一応念仏だけは言っている。 しかし、それではいけない。さらにそのがんとして守っている私の「我の心」が、仏の教えによって、真実のはたらきに 照らし出され「自分という人間はこういう存在だったのか」ということを知らされていく。 それは、「我に執着するこころ」の内容を知らされていくということです。 そのことによって、仏のまごころが次第に受け入られるようになっていくのです。自分の正体を真実の光によって照らされ知 らされる。知らされれば知らされるほど、仏の心、つまり信心は成立する。「私の心を真実の光によって知らされる歩みをす る。 それは如来の廻向によって私たちの上に成就されていく。それでは「浄土真宗の人は何も行をしない。ただじっと坐っている だけ」だとか、「南無阿弥陀仏と言っているだけ」、そういう風に言う声が時々上がるのを聞きます。実はそうではなく、猛 烈にやっている。その猛烈にやるところが三番目の問題です。 その2)三番目の問題。ー自己を破っていくはたらき。本願に遇うー この歩みの姿、歩みの進め方について説かれてあるのが「化身土巻」。この三番目の内容。これは、一番、二番、三番とな っていくにつれて、それまであまり顕らかにされていないことです。 一番目は浄土教の人は当然、自力聖道の教えではできないと解っている。 しかし、二番目の本当の大行。「南無阿弥陀仏のはたらき」をいただくためには、私の心が真実の心でないと大行を受け止め られないのです。 それまでは問題の関心が届かなかった。親鸞聖人という人は、そういう意味では、非常に現代的というか、現代人も負けるく らいに現代的なところがあるように感じます。この信心の問題、心の問題というのは、わずかですが取り上げていた人はいま した。 半分ぐらいは親鸞聖人が初めて顕らかにされたものです。その「自己を破って行く、破られて行く道をどうか歩んで欲しい」 という如来の本願が四十八願の中の第二十願という本願だったのです。 その二十願というものが親鸞聖人の頃まではほとんど明らかにされていなかった。そこを聖人が顕らかにされた。ですから、 私たちが歩んでゆく最後の段階がほとんどよく解らかなかったということです。 これは、とても大変な功績です。その最後のところが顕らかになって、すなわち私の本当の正体、一番奥の心というか、 我見・我執の心、仏を謗る・否定するようなこころ、そういう私であるということを知らされる。それを一度知らされたら終 わりということではありませんから、こころというのは不思議なものです。 昨日、「そういうのが自分だった。南無阿弥陀仏。」と言っても、今日またそれがまた次の日には戻ってしまうのですか ら。一晩寝たら煩悩も一緒に元気になるんです、みんな。試合開始のゴングがまた鳴ってまた始めるようなことになる。 だから、私たちの照らされていくという歩みはずっと続きます。照らされ終わるということはありません。 このことが課題です。これは生涯にわたる課題です。 凡夫こそ救われる真実の教え/本願の世界 その1)凡小修し易き真教 ところが、私たちは「極楽」という言葉がもてはやされるように、そういう意味での「浄土」。そこへ至れば救われる。そ こへ行くまではまだ救われていない。そういう考えが何故かあるのです。皆さん、ありませんか?何故かにあるのでないかと 思うんですよ。そういったこころがです。しかし、親鸞聖人が顕らかにされた世界は至り着くということがありません。 例えば、さっきの一番最初に言った総序(p149)と呼ばれる序文の中を見ると、最初の方から、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀 経という浄土の三つの経典をあげて、本願念仏の教えがどういうものかというのをずっと説いてきます。 それを「しかれば凡小修し易き真教 愚鈍往き易き捷径なり」というところで本願念仏の教えを二つでまとめます。「凡小修 し易き真教」、「愚鈍往き易き捷径なり」。これが本願の世界だと親鸞聖人はいわれているわけです。 凡小・愚鈍とは、何にもできない愚かな小さな者ということで、私たちのことを指しています。次の「修し易き」は「往き 易き」に対して効果的に表現を選んでいます。その何にもできないような者でも、「修す」ことができる。これが「行」の問 題。 南無阿弥陀仏一言。これはどんな者でもできるというわけです。 ですから結論は、「なすべきことは、まさしくこの南無阿弥陀仏、念仏申すということ一つ。」というわけです。 その2)愚鈍往き易き捷径 それからもう一つ、「念仏申していく歩みによって救われる」ということをどういう表現で表しているのかというと、「愚鈍 往き易き捷径なり」です。「愚鈍」つまり我々。捷径(せっけい)というのは近道のことです。 近道というのは、まっすぐにそこに行けるようになっていて、回った道は遠い。この場合、回るということは自分で歩いて行 くということを指しています。近道は、仏が私たちの元へ来た道がまっすぐな道です。 それで、どんなに愚かな我々でも往く事ができる。愚かな者というのは、どっち向いて歩んで行ったらいいか解らないものの ことです。「駅はあっちですよ」といわれて、ニ、三歩行ったら、「え、どっちでした?」なんて、そんなことになる。 それが愚かな者、そのどんなに愚かな者でも、まっすぐに迷わずすすんで往くことができる。この「往く」ということで聖人 は救いを表している。それで「往相」というんです。 「往く」というのは、非常に象徴的な表現です。 例えば、今日、自分の身の上に何か大きな事件が起こったとします。「これは大変だ、どうしよう」と、膝がガクガクしてど うしようなんていうこと、ありますね。そういうところを、我々お互い生きているわけです。そのときに、起こったことが壁 になって歩めない。そこで停滞するか、あるいは引き返してしまうか、後退するか。それが「往けない姿」。「往きやすき」 ということの逆です。 その3)浄邦縁熟して どんな問題が起こっても、その問題のところに如来の私への呼びかけがある。そういうことを総序には書いてあります。「浄 邦縁熟して」ってところです。仏は私たちに問題が起こることを待っています。ちょっといじわるな仏のような感じですが。 問題が起こるのを待っているというのは、本当は、ちょっとまずいのですが、しかしこれが解りやすいから、すぐそうなって しまう。その人にとって問題はいつもあるのですが、 ただ、それに気づかないだけです。 だから、問題が起こることを待っているというのは、もっといえば問題があることに自分で気づくことを待っているというこ とです。 その問題になったところで、仏は私たちにはたらきかけてくるというわけです。 その4)調達、闍世をして逆害を興ぜしむ 観無量寿経の問題提起 その問題を、教えとして、お話として、私たちによくわかるように「こういう問題がありますよ」と語りかけるのが『観 無量寿経』に出てくる阿闍世の物語です。阿闍世が父を殺したという問題です。あれは、無理に殺さなくてもよかった。しか し、殺さないと浄土真宗が始まらないというのでは大変です。 「親殺し」のことを「五逆」といいます。これは五種類です。父を殺す・母を殺す・仏から血を流させる・先生を裏切る・友 人を裏切る。の5種です。この、仏・先生・友人は、仏教で出会う関係。父と母は私を産んで育ててくれた人。この五人の人 に大変な恩がある。それに逆らうことが「五逆」といって、大変重い罪です。 五逆の罪、父殺し その中の、親殺しを観無量寿経では「ことさらに」といっています。『故意』にやったというのです。「やろうとしてやった 」ということです。「ことさらに思うて父を殺す」です。だからこの一応の意味は、父を殺すときに、「殺してやろう」と心 の中で思う。 強く思って、そして殺したんだという、一応そういう意味ですが。もうちょっとアレンジすれば、「殺そうと思うその思いで 父を殺した」。つまり、あいつを殺そうと思った時点ですでに父を阿闍世は殺しているということです。 父は生きてはいますが、子供の中では、父は死んでいる。これはどうしょうか。これだったら、みんな経験があるのではない でしょうか。親を心の中で殺す。そういうことではないかと思います。 ようするに、そういう悲劇が、我々の現実=我々の問題が、仏が私たちにはたらきかけてくるその現場になります。その問 題の部分が、仏が私にはたらく際の出張所になります。そして、そこから私にはたらく。だから、私たちに色んな問題が起こ っている。起こったときは、「何でこんな問題が」と反射的に思いますが。それを、時間はそれなりにかかるかもしれません が、ついに念仏で受け止めて行くのです。そしたら、その問題のところで、それが最終的には私の歩みをとどめる壁になって いかないのです。その問題が起こったからこそ往くことができるということです。念仏もうして「往く」ということができる のです。それが私たちの救いの姿です。だから、何が起こっても「往ける」これは大変な問題です。 逆害の問題 そういう意味で、「往く」というところに救いがあるということが、受け止められないかもしれません。そうではなく、ど こか安全地帯に行ったら救われるという風に思いやすい。それで、聖人が三番目の問題をあげて、「往く」ということをおっ しゃる。私たちがいろんな問題を縁にして「往く」。その問題を仏教では「悲劇」だといいます。 悲劇という言い方を必ずしもしなくてもいいのかもしれませんが。 親鸞聖人は「悲劇」とはおっしゃいません。「逆害」といいます。 「闍世をして逆害を興ぜしむ。」とあります。提婆が阿闍世に逆害を興させたというのです。悲劇というと「かわいそう」と いうイメージがでます。そうすると問題を取り違えてしまう。逆害を興したということです。ですから、この「ことさらにお もう」ということは、辞書で引いたら、これだけで「殺そうと思う」という意味があるそうです。殺そうと思って殺す、とい うことです。 そういう風にして、「自分の何であるか、私とはどんな存在であるか」ということを、いわゆる「我の存在」、具体的には、「五逆の存在」。 誹謗正法、仏法を謗る在り方 そしてもう一つ、誹謗正法といいますね。仏法を謗っている存在。仏法というのが、私を正しい道に立たしめる教えです。そ れを謗ったらどうなるかぐらい解るのだけど、やはり解らない。仏を謗ったままで、我が道を往く。そういう自分だったとい うことに気づいていくということです。だから、気づくところに、「往く」ということが成り立っている。それで「申し訳な い自分だった。申し訳ない南無阿弥陀仏」といって、往くということができるようになっていく。そういうことを親鸞聖人が 明らかにされました。 三番目は、この三つの中で、ある意味これまで一番顕らかになっていなかったことでした。 「行の巻」の次には「信の巻」があり、その直前に「序」があります。信の巻の「序」の内容を見ると、二つの内容がありま す。その「序」の最初の二行ですけが、最初の一行と二行目。 最初の一行目が、文字通りこの信心についてのこと。もう一 つが、この「化身土」、「化身土の光に照らされて、私の本当の姿を知らされて行く道を歩む歩み方」のことが簡略に要約的 に述べられてあります。最初の方が、「信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す」(p210)です。如来の願心。自らの はたらきによって私の上に真実信心が成就するのです。これは、信の巻の問題を最初に出します。二行目が、「真実の心、真 心を開闡、開くことは、大聖、すなわちお釈迦様が、「大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と言って。お釈迦様が、私たちのため に、私の本当の姿を照らし出す教えを具体的に説いてくださった。 十九願と二十願 十九願と二十願が私を照らし出す本願。それをそれぞれの趣旨を体現した教えとして説かれた のが『観無量壽経』。 そして二十願が『阿弥陀経』です。お釈迦様が私たちに十九願、二十願には、それぞれの段階がにおいて、本当の私を知らせ ようとして具体的に説かれた教えなのです。私たちには本願そのものは解りにくい。でも、その本願の内容・趣旨・精神とい うものを具体的な教えで説いてくれている。私達は教えの世界を生きているようなものですから。 それはお釈迦様が説いてくださった本願は阿弥陀が興されたということです。 「信巻」の最初の序の内容は二つあります。「信巻」・「化身土巻」は共通して、信心の問題を扱います。信巻は申しました ように「信心が大事なんだ」という確認です。では、信心「真実の心とは何か」ということを顕らかにする。 二番目は、「その信心、真実の心が、真実ではない我見を持った私のところに成立するにはどうすればいいのか」という問題 が、二番目の化身土巻の問題。信心について顕らかにする問題。内容が二つあります。それは「信巻」と「化身土巻」で表し てあります。その両方の「序」がここにある。「信の巻」の前にあると見ると、整理がつくような感じがします。 >>つづく<< |
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