春期 永代経法要 法話録 講師 岡本英夫師 2007/05/30 日中 後半大行と我々のこころ 仏のこころはわれわれにとって本当に必要なことなのか、そこがこうはっきり解らない。はっきりしないところで、案外平気 に生きて行けるんです。こういう問題を聖人は見出したんではないかと思います。ですから、そこのところを、「あなたは一 体どうなっているのか、あなたの心はどうなっているのか。あなたの心が本当に真実の心を慕っているのか。」そのことを明 らかにしなければいけないではないか。こういう道が次に出されてくるわけです。 このところが本当に浄土真宗の大問題。浄土真宗の問題ということは人間の問題です。 人間に問題がある。人間存在にもともと問題がある。だから、もしこれに真実というものを成就しようとしたら、その問題の ところが結局最大の問題となって表にでてくるんです。問題性を発揮してくるんです。その問題というのが、「不実の心 の持ち主である。」ということです。このことを正信偈では、「邪見驕慢の悪衆生」(聖典p205)という表現で的確に表さ れています。邪見驕慢というのは、自分の思いを正しいとして相手の思いや仏様の思い、仏様の真実のこころをこちら側から 「間違っているんだ。」と言って謗る。こういうことを邪見驕慢といいます。こういう思いを私たちは持っている。 このものに対して真実のはたらきを光とすると、その邪見驕慢・我見の心が俄然、表に現れてその真実の光を阻止しようとす るというわけです。そういう心の問題、信心の問題というのがわたしたちの内にあるわけです。それがもし克服できたとなれ ば、南無阿弥陀仏のはたらきは、まさにその大行の通りに私たちの上に成立するということです。 ただじっとしていても救われない その大事な大事な信心も、大行を成立させるか出来ないかの決定的な要素になる。この信心も実は仏様 の廻向によって私たちに与えられるものなんです。ところが、仏様の廻向というからといって、じっとしておけば簡単に貰え るというようなものではありません。そんなものはものはありません、始めから。 仏様の真実のお心が、仏様ご自身は仏様の願いによって私たちすべてのものの上に成就しようと願われているけれど、 私たちはこれを、逆に、全身をあげて阻止しようとします。 その成就しようと言う仏様と阻止しようという私たちの心との戦いがどうしても避けられない。それは、戦いということでも ありますが、私たちの方から言えば、私の本当の姿を教えの光によって照らされて、本当の私とは何であるかに目覚めて行く 歩みです。仏様の方から言えば、目覚めさせて行くその本願、「どうか、そのような歩みをして本当の自己に目覚めて欲しい。 」とそういう願いを私たちに対してかける。仏様は本願そのもののことですから、それを、第十九願、二十願というような本 願で顕わされたわけです。その歩みを私たちが、一歩一歩なしていく。今日もまた、折に触れてというか、本当の自分という ものを知らされて、仏様を謗っている自分、仏様を何にも問題にしていないような自分というものをまた今日も知らされて、 「南無阿弥陀仏、申し訳ありません」。そして「この道をしっかり歩んで行きます。」と誓う。 だから「南無阿弥陀仏、がんばります。」ということです。「こういう世界を開いて下さって本当にありがとうございます。 南無阿弥陀仏ありがとう。」と言って歩んでいく。その一日一日の歩みが、私の方から言えば、教えをお聞きして、自己とは 何かというものを、その光で知らされてお詫びをし、感謝をし、願いをおこして歩んでいく道ということになります。 自己を知らされるはたらき 仏様の方から言えば、自らの光を具体的に、さっきの例で言えば法蔵菩薩としてね、あらゆる人の中に至らせて、言 い換えれば、それが真実信心と言うものを廻向成就して、その一人一人の中に成立する信心が、その人の我見煩悩というもの を照らし出して行くんです。賜った信心によって我が身というものを照らされて知らされて行くわけですね。その信心をあら ゆる人に成就しよう。その信心を本当に成就するためには、この光によって自己が何であるかを照らされて行く歩みをあらゆ る人々の上になさしめようという、そういう願いが興されているわけです。 「信楽受持」「難中の難」 そういうような形で、四十八願という、願の数でいうと十七願、十八願、十九願、二十願あたりが核心的なところに なります。そういうふうにして歩ましていただく。その歩みの最大のテーマは「信楽受持」信心の成就ということです。 そのことを見てきましたように、法蔵菩薩は最初から信心の成就ということを自己の願いとなさっていた。 そして、ついに最後は四十八願を興して、この四十八願も、第十八願を中心として、信心成就の内容が中心になっているわけ です。そういうような法蔵菩薩の歩みがあった。あるいは、あるんだと。それは、「信楽受持」ということが、「難中の難、 この難に過ぎたるは無し」と言わざるを得ないほどの最大の大事であり問題であるから、そこに焦点をあてて法蔵菩薩が歩ま れた。これが、前回(彼岸)もお話した「この故に、我が法はかくのごとく作し」ということです。「かくのごとく作し」の 主語は法蔵菩薩。その法蔵菩薩がそのように歩まれたのを、お釈迦様が見出しされた。そしてそこのところをお釈迦様が教え として説いた。実際説いたのが『大無量寿経』という経典です。そして、最後にもう一度、一番大事なところは「この信楽受 持の問題なんだぞ。」ということを、いよいよ最後にもう一度言って、これで終わりますということになりました。 前回のはなしから/まとめ そういう風に見てきますと、本当にこれは解りやすい経典。テーマが最後になって鮮明にでているような感じがし ます。これ、最初から読んでいったらなかなか大変です。本当に、森の中をね、ここはどこの森ですか?ということを聞かず に入って行くようなものです。最後に、どこの森ですって名前があったっていういようなものです。ですから、お釈迦様はこ の経典を説くのに、本当に首尾一貫して、一つのテーマの下にこれを説き抜かれた、それが、「信楽受持」の問題だというこ とです。その大無量寿経を、そのように正しく受け止められたのが親鸞聖人です。ですから、親鸞聖人が「教行信証」。いわゆ る浄土真宗を顕わされたのは、大無量寿経の説き方と同じなんです。そこのところは、申す時間はなくなりましたが。 親鸞聖人が「教行信証」の真仏土、化身土という六巻で表される、浄土真宗の具体的な内容となさるということの元はもちろ ん、「大無量寿経」です。この大経が持っている一貫したテーマは「信楽受持」。この一つの視点に立って、この信楽受持の 問題を解決しようという願いにたって法蔵菩薩が歩まれ、お釈迦様がそのことを説かれ、最後にもう一度念を押して教えられ た。それが、ひとえに私たちの上に本当の救いを、信楽、如来の信心の成就という本当の救いを起こさしめようという、そこ に焦点が絞られているということです。 では、これで終わらせてもらいます。ありがとうございました。 >>おわり<< |
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