■ 2007年5月 ■
宗祖親鸞聖人御正忌報恩講特集
「親鸞聖人って、どんな人?」ーその4ー
[5]法難と流罪
ここをもって興福寺の学徒、 太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。
―教行信証 <後序>― 真宗聖典p398
<訳>
(前略)このような理由により、興福寺の学僧ら、後鳥羽上皇・土御門天皇(つちみかどてんのう)の時代。承元元年二月上旬のころ、朝廷に専修念仏禁止を強訴した。
天皇、臣下ら、その訴えを聞き、法・道理ともに道を外れるほどの、嫉妬と忿(いかり)をいだき、ついに怨を結ぶにいたる。これによって、真宗興隆の祖師、法然上人はじめ、その門下数輩の罪科を問わず、みだりがわしくも死罪に処した。あるいは僧の身分を剥奪されたが、罪名まで賜って二度と戻れない配所に流したのである。わたしもその一人であった。
時代背景
当時の仏教界は貴族社会との結びつきが強く、出家者といっても実際は天皇の臣下で、僧籍は天皇の勅許がなければ出家者として認められませんでした。
その頃、仏教界の中心にいたのは、「南都北嶺」=奈良の興福寺(法相宗)と比叡山延暦寺(天台宗)でした。
比叡山では、円仁が比叡山に伝えた念仏三昧法から源信の天台浄土教、良忍の融通念仏宗などの浄土教の興隆など、鎌倉新仏教の開祖たちはみな比叡山に学び、一切衆生の救済を説く鎌倉新仏教を生む母胎でもありました。
しかし、教義の教えや体系的な学問にはげむ者がいる一方、現世の加持祈祷や広大な荘園などを持ち、僧兵の武力を通じて政治権力を持つようにもなっていきました。
その力は当時の朝廷をも凌ぐとも云われていたのです。
各地で飢饉や戦が相次ぎ、逃げ惑い、脅える人々ととは関係のない、限られた権力者のための仏道になっていったのです。
まさに一切衆生の救済を願う「大乗菩薩道」とまでいわれた根本道場は廃頽を極めていたのです。
専修念仏のひろがり
親鸞聖人が9歳で出家得度した頃。すでに法然上人は全ての人が平等に救われる道を求めて比叡の山を下り、京都東山の吉水に草庵を結んでいました。
親鸞聖人が29歳になり、道を求めて山を下りる頃には、その僧伽(さんが)はこれまで仏法とは無縁なものとされていた一般庶民をはじめ、僧や貴族・武士などが、吉水の法然上人のもとに集い、ともに念仏の教えに和していたのです。
もちろん吉水に集う人々の中にも、念仏の教えにだけではなく、法然上人の人格にすがっていたに過ぎない人もいました。
また、「念仏さえ称えていればどんなことも障りにはならない」として、平気で悪事を行い、教団に対しする無用な非難を引き起こす者もいました。
そういった教団内での浄土教に対する誤解や風紀の乱れなどもあり、吉水の教団は既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になりました。
数百年の伝統と権威を誇示する延暦寺や興福寺が、「このままでは、日本中が念仏宗になる」と恐れたほど、浄土仏教の発展は著しく、その教えが急速に拡大したところに最大の脅威を感じたのです。
当時の仏教界の中でも、法然上人は”智慧第一の法然房”といわれ、仏教諸宗派との法論の中でも、その教学の深さは随一だったといわれていたため、仏法上の争いは「大原問答」ですでに決着がついていて手の出しようがなかったのです。
七箇条制誡
しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。
―教行信証 <後序>― 真宗聖典p398
<訳>
しかし、諸寺の僧たちは教えに暗く、何が真実で、なにが方便であるかを知らない。朝廷に仕えている学者たちも、行の見分けがつかず、外道と正道の区別をわきまえない。
教義で歯がたたなければ、あとは実力行使しかない。仏教諸宗派は、権力者を動かし、浄土教を弾圧しようと企てました。
当時、朝廷が恐れるのは延暦寺や興福寺の僧兵による強訴でした。大寺院は、僧兵を動かして自らの要求を朝廷や公家に無理やり認めさせようとしました。
そうして、比叡山延暦寺と奈良興福寺は、念仏停止を求め、何度も朝廷へ直訴状を出します。
そもそもの事の発端は、1204年(元久元年)冬。比叡山延暦寺(=天台宗)の僧たちは時の座主・真性(しんしょう)に対して、専修念仏停止の訴えを起こした事に始まります。
その決議を受けた法然上人は、比叡山の非難を解くため『七箇条制誡』という誓約書に門弟ら190名の署名(親鸞聖人は“僧 綽空(しゃっくう)”という名で署名)を添えて延暦寺に送り、専修念仏者の自戒を求めたために、天台については一応の収束を見ます。
興福寺奏状
聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は聖道いま盛りなり。 ―教行信証 <後序>― 真宗聖典p398
<訳>
聖道の道では、行も証もかなわない時代になって久しい。浄土を宗とする真実の教えはさとりを開く確かな道であることが顕らかになる時が来たのである。
しかし、翌1205年(元久2年)今度は南都(=奈良の興福寺(法相宗))が朝廷に興福寺の僧徒から、法然教団に対して、九箇条の過失を書き付け、次のような内容で朝廷へ直訴状が送られます。
1、新宗を立つる失
わが国にはすでに仏教の宗派が八宗もあり、新たに浄土宗なるものを立てる必要は全くない。
それなのに法然らは天皇の許可も得ずに一宗を名乗っているのは僣越至極のことである。
2、新像を図する失
法然らは阿弥陀仏の救いの光明が専修念仏者のみを照らし、他の仏教者にはそれに全く当たっていない絵図をわざと描き、それをもてはやしているのは大変けしからない。
3、釈尊を軽んずる失
法然らは阿弥陀仏だけを信じて供養し、仏教徒にとって最も大切な釈迦牟尼仏を軽んじて礼拝供養しないのは本末顛倒も甚だしい。
4、法万善を妨ぐる失
法然らは他宗を誹謗して、仏像を造ったり寺や塔を造るという善行をやっている者たちを、あざけり謗っていることは言語道断の振る舞いである。
5、霊神に背く失
日本では古来仏教と神道とは固く結びついている。だからこそ伝教や弘法のような高僧たちも、みな神々をあがめ尊んできたのである。それにもかかわらず法然らは、「もし神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ」と言いふらし世人を迷わせている。もし法然らの言が正しければ、伝教や弘法は地獄に堕ちていることになる。法然は伝教や弘法たちより偉いとでも思っているのだろうか。このような暴挙は即刻禁止させないと大変なことになる。
6、浄土に暗き失
彼らは、「囲碁や双六、女犯や肉食、何をやってもかまわぬ」といって、仏法の戒律を軽蔑し、尊い仏法を破壊している。
7、念仏を誤る失
念仏というのは本来、「阿弥陀仏のことを心の中で念じる」ことなのに、法然らは称えさえすればよいと思って、口で称えることを念仏だと教えているとし、仏教を曲解させた。
8、釈衆を損ずる失
僧に禁じられている囲碁・双六・女犯・肉食などは、念仏者には浄土往生のさまたげにならないといっている。
9、国土を乱す失
仏法と王法とはちょうど、肉体と心の関係で完全に一致すべきであるのに、念仏者たちは他の諸宗と敵対し我々と協力しようとはしない。
遠流に処す
1206年12月、院の御所女房たちが、法然上人門下の住蓮・安楽の念仏会に加わったことが後鳥羽上皇の怒りをよぶこととなります。
これが直接の動機となり、遂に1207年(承元元年)2月。
鎌倉幕府が奈良興福寺の強訴に従い、次の通りの刑を執行します。
法然房源空=法然(罪名=藤井元彦)・遠流(四国番田/高知県)
善信房綽空=親鸞(罪名・藤井善信)・遠流(越後国国府/新潟県上越)
浄円房・・・・・・・・・・・・・・・遠流(備後国/広島県)
澄西禅光房・・・・・・・・・・・・・遠流(伯耆国/島根県)
好覚房・・・・・・・・・・・・・・・遠流(伊豆/静岡県)
法本房行空・・・・・・・・・・・・・遠流(越後国・佐渡島)
西意善綽房・・・・・・・・・・・・・死罪
性願房・・・・・・・・・・・・・・・死罪
住蓮房・・・・・・・・・・・・・・・死罪
安楽房遵西・・・・・・・・・・・・・死罪
※善慧房証空・・・・・・・・・・・・・無罪
※幸西成覚房・・・・・・・・・・・・・無罪
※上の二人は流罪に決まったが、当時の官房長官にあたる安居院法印聖覚(あぐいほういんせいかく)尊長の沙汰によって、身柄を引き受けられる。
以上の通り、念仏停止・教団解散という厳しい勅命を下されました。
判決当時、親鸞聖人は死刑が宣告されました。しかし九条兼実の計らいにより、流刑になっています。当時、親鸞聖人35歳でした。
この事件は、これまでの数百年の伝統と権威を誇示してきた聖道の諸教団が、大乗仏教の本質を見失い、道を踏み外してしまっている姿であると親鸞聖人は見抜かれていたのです。
この権力者による弾圧によって、さらに念仏の教えのみが、この苦難の世を生き抜いていく確かな仏道であることを如実に物語っているということがいえるでしょう。