■ 2008年 2月 ■
「煩悩って、なあに?」
煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという
-唯信鈔文意 p553-
サンスクリット=kleśa、क्लेश
自分自身の心が事物の道理を知らないこと(=無明)によっておこる心を乱し、悩ませ、身を煩わす用(はたらき)のこと。
108あるといわれているが、経典によって様々。
--------------------------------《根元的な煩悩》----------------------------------
<三毒>
貪欲(とんよく)・・・・・・むさぼり求める心。
このような心は、我を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。
瞋恚(しんい・しんに)・・・怒りの心。我(自分)に背くことがあれば怒るような心。
仏教で人間の諸悪・苦しみの根源と考えられている三毒、三不善根のひとつ。
愚痴(ぐち)・・・・・・・・全ての煩悩の根源。
真理に対する無知の心。
別名を愚癡(ぐち:愚痴)、我癡、また無明ともいう。
万の事物の理にくらき心をさす。
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我慢(がまん)・・・・・・・自身を誇るこころ。
我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す
疑・・・・・・・・・・・・・真理に対して思い定むることなく、疑ってかかる心。
教えも自心は受け付けることはない。
我見(がけん)・・・・・・・別名を不正見。
自分中心の考え。
自分のすがたに気付くことのない状態。
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小随煩悩
忿(ふん)・・・・・・・・・瞋恚に付随して起こる煩悩。
いきどおり。
自分の気に入らぬことに激怒して、杖で人を打とうとするぐらい激
しい感情になる心をさす。 この心は粗暴な言動を生み出す。
恨 (はん)・・・・・・・・・忿(ふん)に続いて生起する。
自分の気に入らぬ人を怨み続ける心。
恨を心に持つ人は,これを押さえつけることができない。
このような人は平常心を持つことができず、常に煩悶たる生活を送る。
覆(ふく)・・・・・・・・・罪をおおい隠すこと。
利益を失う・不利益を蒙るこことを恐れて、自分が為した罪を
隠すことである。 しかし、自分の為した罪を隠す人は、後に、必ず悔い悲しむ。
悩 (のう)・・・・・・・・・忿や恨に続いて生起する。
立腹して、人を恨むる心。
怨みつのった気持ちを思い返す心。
怨みが進み、相手にひがみ、自分の心も内では煩悶する。口をあければ、その言
葉は、喧嘩腰で卑しく、相手を毒づき、なじる。 このような心は、自身の心も毒
で蝕む。
嫉(しつ)・・・・・・・・・ねたみ。
自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を希求し続けると、人の栄達等を見聞
きすると深い嫉妬を起こす心の状態。
妬み深い人はこの心を増長しやすい。
慳(けん)・・・・・・・・・ものおしみ。
自分だけの利益を希求し続ける心。
財に耽着し、人に施す心のないこと。
そのような心の人は、蓄財する心にとりつかれてしまい、他人を顧みない。
誑 (おう)・・・・・・・・・自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を得ようとして、様々なはかりごとを
心に秘めて、自分が徳のある人物であると見せかける偽りの心。
諂 (てん)・・・・・・・・・自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を得るため、他者をだまして迷わ
そうとして、私心を隠して人に従順を装って、人の心を操縦する心。
もしくは、このような手段をもって、自分のなした過ちを隠そうとする心。
害(がい)・・・・・・・・・他者への思いやりの心が無い状態。
驕慢(きょうまん)・・・・・自らの身を非常に勢い盛んな人間であると思う。驕り、誇り、思い上がりの心。
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中随煩悩
無漸(むざん)・・・・・・・内面的に恥じないこと
無愧(むき)・・・・・・・・人に恥じないこと
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その他
睡眠(すいめん)・・・・・・眠りに陥らせる精神作用
掉挙(じょうこ)・・・・・・精神的な躁状態のこと
惛沈(こんじん)・・精神的な鬱状態のこと
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不断煩悩得涅槃/煩悩を断ぜずして涅槃を得る 教行信証(行)<真宗聖典p204>
親鸞聖人在世のころ、比叡山の修行テーマは、「断惑証理/だんわくしょうり」でした。
煩悩を断ち尽くす事によって覚りに達することが仏道とされてきました。
そのためには、それを妨げるさまざまな欲望や、深い執着に打ち勝とうとする強靭な菩提心が求められます。
そのような人間の精神力に対する大きな信頼の上に、断惑証理という修行が成り立っていました。
しかし、断っても断っても常におそってくる洪水のような煩悩の大河にいつでも押し流されないように出来るのは並大抵のことではありません。
むしろそれを断とうとすることによってさらに煩悩の焔が燃え盛るのを聖人は感じていのでしょう。
そういったことの修められる者だけが仏に成れるのだとすれば、あらゆる現実を抱えていきている生活者はどうすればいいのでしょうか。
そういった”頑張ればさとれる”という修道の在り方に聖人は疑問を感じていました。
<迷ったことのないものに目覚めるということはない>
七高僧の一、源信僧都は、念仏法語(横川法語)でこういわれています。
また、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外(ほか)に別のこころもなきなり。 <真宗聖典p961>
といわれています。煩悩にとらわれ、決して離れることの出来ないものが人間であり、ありのままの人間の姿です。
そのありのままの姿の自分から離れようとするから、逆にそれに縛られ苦むのです。
煩悩があるから、人間というものが見えてくる。つまり煩悩に苦しんだことが涅槃に至る因になるのです。
これが煩悩を断ぜずして涅槃を得るという意味です