■ 2008年 7月 ■
「御文って、なあに?」
「『御文』は、如来の直説なり」と存ずべきの由に候う。
         『蓮如上人御一代記聞書』  真宗聖典 p878

真宗再興の祖と呼ばれる本願寺第8世の蓮如が真宗の肝要を解り易くまとめ、門徒に与えた手紙形式の法語。
本願寺派では御文章『ごぶんしょう』と呼ばれていますが、大谷派では『おふみ』とよばれています。

後に蓮如の孫である圓如(えんにょ)が、二百数十通の中から80通を選び、五つの章に分け『五帖御文/ごじょうおふみ』として改訂しました。
その五帖のうち1帖目から4帖目には日付があるものを年代順にならべてあり、5帖目には日付が不明なものをまとめてあります。
そのため、四帖目の最後、第15通「大坂建立」は、蓮如上人の真筆としては最後の御文となり、遺言ともいわれています。
五帖目には、『白骨の文』など、教科書に載っている名文や、『聖人一流』や『末代無智』などの真宗門徒必須の御文が書かれています。
もあります。
その他に、『夏御文(げのおふみ)』、『御俗姓御文(ごぞくしょうおふみ)』があり、それに載りきれなかったものを『帖外御文(じょうがい おふみ)』として網羅しています。

<蓮如上人と門徒>
いつも門徒たちと対座して法を語ったと伝えられる蓮如上人は、親鸞聖人が手紙によって関東の門徒を教化したという先例に倣われ、ことあるごとにこの御文をしたため、門徒に読み聞かせたり、また門弟たちのために書き与えられたと言いわれています。
この時代より、真宗門徒は朝に正信偈・和讃のお勤めを行った後、五帖御文を一帖ずつくり読みする習慣がはじまり、これが真宗の再興に重要な役割を果たしました。
また、このころから能や狂言、猿楽や田楽などの民俗芸能も盛んになり、民衆が勢いをもった時代でもありました。
当時、東洋伝導に訪れたヨーロッパの宣教師が日本を訪れた際、日本人の識字率の高さに驚いたという記述が残されています。
その理由に、当時の日本人の多くが朝夕に御文を読む生活をしていたからだといわれています。
ヨーロッパからやって来た宣教師たちはそれに習い、キリシタンの布教に真宗の御文を手本にしたテキストを制作し、それを手がかりに日本での布教を行ったともいわれています。
このことからも解るように、御文によって真宗の教えが民衆の間に広まっていたということがわかるエピソードです。