■ 2008年 8月 ■
「蓮如上人って、どんな人?」
一宗の繁盛ともうすは人の多く集まり、威の大なる事にてはなく候う。
一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁盛に候う。 蓮如上人御一代記聞書-122 ( p877)
蓮如(れんにょ)1415年〜1499年
室町時代に活躍した本願寺第八代・「真宗再興」の祖
1415年(応永22年)、存如(本願寺第7代)の長男として、京都・東山大谷の地で生まれる。
生母は存如の母に仕える身分の低い女性で、存覚が正妻を迎えるとき、本願寺を出て行った。
当時の本願寺は参詣の人も少なく、さびれた状況で貧しく、生活も厳しかった。17歳で青蓮院で得度。
蓮如は親鸞聖人の著書『教行信証』などをとおして求道と勉学に励む。
43歳の時、父・存如が亡くなり本願寺第八代を継職。
その後、蓮如は近畿・北陸・東海などの地域で教化活動をし、念仏者を次々と生みだしていく。
51歳の1465年(寛正6年)、本願寺が栄えていくことを妬んだ比叡山延暦寺の衆徒らによって、大谷本願寺が破却される。
逃げるように近江の堅田・金森の地を転々とし、1471年(文明3年)に吉崎御坊を建立。
この地で親鸞聖人の教えを門徒にわかりやすく伝えるための工夫を凝らした手紙形式の『御文(おふみ)』を制作。
これによって民衆を教化し親鸞聖人の教えを広く伝えた。
さらに『正信偈』『和讃』を開板し、現在の真宗門徒の日々のお勤めの作法のもととなるかたちを定めた。
4年後、吉崎から大坂河内出口、京都山科へと移り、66歳の1480年(文明12年)には5年の歳月をかけ美麗壮大な山科本願寺を完成させた。
75歳で後継を実如に譲ったあとも活発な活動を続け、83歳の時には現在の大阪城の地に石山本願寺を建立し、妻子と伴い移住した。
1499年(明応8年)3月25日、蓮如上人は死期をさとり、山科本願寺で真宗再興に尽くした85年の生涯を終える。
<パイオニアとしての蓮如>
蓮如上人は、真宗を原点に戻し、生き生きとした仏教を民衆のただ中に再興されました。
室町/安土桃山時代は、キリスト教の東方伝道や楽市楽座などのあたらしい文化や価値観によって時代の変動期です。
それだけに、不振を抱え貧遇にあえぐ本願寺教団の再興に求められたものは、真宗の教えが正確に伝わる「新しい布教のスタイル」でした。
文字の読めない人々や、貧偶にあえぐ人々の「機」に応じて等しく親鸞聖人の教えが伝わるよう様々な工夫をこらしました。
御文の製作や正信偈・和讃の編纂。教学者の育成・門徒組織の再編成などの事業を次々に行い、本願寺はいよいよ盛んになったと言われています。