■ 2009年4月 ■
「在家って、なあに?」
うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、
野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、
あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。
歎異抄13章〈真宗聖典p634〉
【在家/ざいけ】
僧侶を出家というのに対し、出家せずに修行する者を『在家/ざいけ』と呼びます。
または信者や門徒のことを指す場合もあります。
古くは出家することが大切にされ、出家者の優位が説かれた時代もありました。
今日では仏の法は、悩み苦しむ一切衆生のために説かたものであることから、在家の重要性が説かれるようになりました。
それは単に権力者や勝ち組や善人だけが救われるという不公平な教えではないという深い内容をもっています。
親鸞聖人は、出家者でありながら流罪にあわれました。そしてそこではじめて海や川に網を引き、野山で獣を狩りをする。
そのような罪を造り、その日のいのちを繋ぐ意外にない「いなかの人々」の現実に出遇われました。
そこで自分が出遇って来た仏道が正に”お山の仏教”であったことを知らされたに違いありません。
聖人は、これまであったような仏の救いから漏れざるを得ない者をこそ救うのが阿弥陀仏のおしえであると深く受け取られたのです。
そういうことから、真宗は在家を基本とした仏教教団といわれてきました。
または「門徒衆」ともかつてはいわれたこともありました。