■ 2009年6月 ■
「成仏って、なあに?」

念仏成仏これ真宗
本願を信じ念仏もうせば仏に成る


成仏=さとりを開いて仏陀(覚者)になること。

<歴史>

 初期の仏教では、煩悩を断って六道の苦から解き放たれる解脱者を仏陀(真理に目覚めた者)つまり、『仏』と呼びます。
その仏陀である釈尊の説いた教えの通り修行することによって、たとえ遠い未来であっても必ず仏に成ることが出来ると考えられていました。
その根拠は、「一切衆生悉有仏生」と涅槃経にもあるように、すべての人には仏に成る種があるのだと長い間信じてこられたからです。

 それが初期大乗仏教が成立する頃になると、現世で直接にさとりを得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中でいつかは成仏できるのではないかと考えられはじめました。
そして、成仏をめざして修行する者を菩薩とよびます。
その菩薩のように生まれ変わっても一心に行を積むことで、自分もはるかに遠い未来にであっても必ず成仏できる。そう考えられるようになってきました。

 さらに後期の大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすらできないと考えられるようになりました。
また、一切衆生は本来成仏していると考える思想や、信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする密教の即身成仏などの思想も生まれました。

日本文化のなかでの「成仏」

日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」とはほど遠くにあり、その内実は死後に極楽あるいは天国、あの世といった世界に行くことを指しています。そのような考えから派生する「成仏」ができない、という考えは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指しています。
 こうした表現は、日本古来の死生観が、仏教に入り込みできあがった、いわば日本人の習慣からでた感情であって、本来の仏教ではありません。
真宗において成仏とは、念仏者が死を迎えてのちに阿弥陀のいのちに帰ると考えられた信仰的思想を背景として、娑婆世界から阿弥陀如来の国である浄土へ往き生まれ、次の念仏者を育てる者となることを成仏といいます。