■ 2021年 8月 ■
非核非戦法要ってなあに?

<原爆爆弾災死者収骨所>

 長崎市筑後町にある「東本願寺長崎教会」の境内地には「非核非戦―共に生きよ」の文字が刻まれた石碑が建てられています。
 この石碑の下には1945年8月9日11時2分、長崎上空に飛来したB29「ボックスカー」より投下された、たった一発の原子爆弾によって亡くなっていかれた1万体とも2万体ともいわれるお骨が納められています。
 その累々と横たわる亡骸は、顧みられることなくその多くが野に放置され、または荼毘に付されたもののそのまま野ざらしになっていました。この惨状を憂えた当時の人たちがお骨を一つ一つ拾い上げられ、ここに収められ現在に至っています。

<法要が営まれる>

 原爆投下直後から現在まで、ご命日である毎月9日にひたすら「非核非戦定例法要」をお勤めしてきました。
法要は原爆や戦争などをテーマとして有縁の御門徒が参詣され、長崎の御門徒の原動力となっていることは間違いありません。


<「慰霊」ではなく「御仏事」>

  この収骨所建立の願いは、決して原爆で亡くなった方々の「慰霊」のためではありません。
戦没者は決して敵の砲弾や原爆でなくなったのではなく、むしろ戦争を「聖戦」と呼び美化していこうとする我々人間の「無明」というただ一つの罪にいのち奪われたのです。それはヒトを殺さねばならなかった、戦争をせねばならなかった、そして原爆を造り落とさねばならなかった、すべての人間の「無明」が、私の「愚かさ」が明らかとなる「場」として、この収骨所は建立されました。



<「非核非戦」は「反戦反核」ではない>

 「反」はどこまでも他者に向かっていく眼であるのに対し、「非」はどこまでも自分のうちに問い続ける眼を指します。
つまり「非」とは私の考え方や生き方。社会の在り方を問い直す用きのことをいいます。
「核」は人間自身をも殺戮するに至った「知恵の愚かさ」を表します。
「戦」は人間の心の奥にある差別の心を表しています。
「核」も「戦」も他人事ではなく、自分自身の中に存在する「他を批判し自己を正当化する」心のあり方を問うています。


<「おん仏事」としての非戦非戦>

 わたしたちはいま現にこの地上で諸有(あらゆる)いのちと共に生きています。しかし、わたしたちの日ごろのこころは人間を中心とし、まるで人類が世界を済うが如くふるまっています。
今日、世界中でおこっている様々な混乱の根源はここに起因しているといってもけっして過言ではありません。
その中でも戦争の問題は私たちの「心の闇(無明)」を最も明らかにしています。
      その視点から非戦ということを考えてみますと、戦禍に斃れたのは我々人類だけではないのでしょう。私たちと同じいのちを共に生きている地球上のあらゆるいのちが傷つき斃れていったのです。しばしば語られる「全戦没者」ということの意味はここにあります。 この戦禍に斃(たお)れたあらゆるいのちの「共に生きよ」という「声なきこえ」を「不」ではなく「非(あらず)」(=争いあうな)という「仏さまの問いかけ」として聞かせていただくことが仏事の意義として大切なことなのです。


「非核非戦法要」
   毎月9日 14:00〜16:30
   会場:東本願寺長崎教会
〒850-0052 長崎県長崎市筑後町9−23
       TEL:095-825-8831)
        ・・・・・どなたでも参詣できます。