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【中世の闇から明を見る】
   2、はじめに

    【中世日本】


<新仏教の興隆とヨーロッパとの出会い>

 日本。向こう側から見れば陸地の一番東の端にあって、特有の世界に感じられるという私たちのくに。
ヨーロッパから、アメリカから、インドから、中国から、ベトナム、フィリピン、琉球、そして朝鮮から見れば、果たしてどんな“くに”にみえるのだろうか。
年表で見て行くと、どの時代にも、決まって記録されているのは、侵略、植民地と云う言葉である。
この言葉の底にある出来事は奴隷のうめきと、流血であろう。罪業うちかさなるそれらの事件にともなって、引き起こされて生じてくることは被害と加害の人間の相剋である。死者は黙して語らずというけれど、その当時の民衆の叫びが一文字一文字になって聞こえてくるようだ。

<仏教の再興隆>

 聖徳太子が和国建設の願いをこめて大陸から受容した日本仏教も、最澄や空海の叡知によって次第に品格を高めたところもあるが、時代に応じようとして却って世俗に堕落し、鎭護国家として政治権力に構造的に組み込まれてしまい、“ひとりの人間”の救済の佛教ではなくなってしまった面もあって、貴族の荘園と、祭政一致の佛教の時代は終わって行く。
そこで新しくはじまる中世という時代には、佛教が根本的に問われ、とてもいきいきとした時代を迎えることになる。
  そういう時代に法然、親鸞、栄西、道元、一遍、空也など、いわゆる鎌倉佛教の祖師たちがぞくぞくと輩出して、勧進聖たちの手足によって大衆化される。
祖師たちの真摯な修道は自身の救済を求め、その菩提心は、時代そのものの救済を求めて闇へ闇へと向かった。
そういう求道に生涯を送った祖師たちの憂愁のまなざしの奥に見えていたものは何であったのか。

<浄土教から浄土真宗へ>

 法然(1133〜1212) によって開宗された専修念佛の浄土宗は、さらに親鸞(1173〜1262)によって《信》の内容が厳密にされた。
しかもそれがさらに深められて主著『教行信証』に開顕され、希有の宗教書として生み出された。
その浄土真宗は、十五世紀になって「真宗ご再興の上人」蓮如(1415〜1499)の『お文』によって民衆にとどいた。
 応仁の乱から始まった十五世紀末の日本は、民衆がはじめて歴史の舞台に躍り出た時代である。
特に北陸一帯は“百姓の持ちたるくに”といわれ、民衆が具体的に王法と佛法という問いを持った時代である。それまで貴族とその荘園に隷属していた民衆が、抵抗といってもせいぜい幕府に愁訴するか逃散ちょうさんといって在所を逃げ出すぐらいの消極的なものであった。それが「惣」と呼ばれる結合共同体を生み出し、さらに自らの解放区奪還をめざして一揆を起こし、初めて人間であることに目覚めるという出来事が始まった。
そして念仏の佛法が自己の救いとなるという新しい時代の幕開けであった。そのエネルギーは応仁の乱後に、新しい一向宗興起の時代社会を形成する。その蓮如の北陸吉崎を拠点にして拡大して行く念佛集団は山の民・海の民という賤業下層民から赤尾の道宗のような在地実力者がリーダーシップを持つようになると、加賀門徒は富樫政親と争うって自治国を建てる。
このような時代の中で起こった在地豪族や中世武士、それに下級武士と圧倒的多数の民衆の綱引き合戦や、一揆は記録された歴史資料では読み取ることは出来ない。
伝承された山姥・鬼・大蛇・河童・カワウソなどの記憶装置によって残された、いわば民俗学のジャンルで扱われる異界・異人流離譚のような手法でしか社会構造を探ることがない面をもっている。
海賊や山伏の間にある民衆の悲しみと信心の喜びの情念が当時の虚像と実像を語っているようだ。
底辺から沸き上がってくる武装した庶民パワーを扇動する一揆時代のリーダー達の行き過ぎにたいして蓮如は矛盾に惑いながら『お文』で六カ条・八カ条の掟を定め、背反するものを破門するということもあった。
そしてついには吉崎を退去して大阪河内出口に赴いて草坊を建てる。やがては堺の大商人をも抱き込んで、石山本願寺となって増大すると、その勢いは戦国大名の武力をも圧倒することにもなる。
しかし、その武装した佛法集団を蓮如は決して是認していたわけではない。教団の内部ではジレンマが起こり、破門事件が起こる。それに対して信長、秀吉、家康は万全の体勢で臨むようになる。それが信長と一向一揆の石山合戦である。

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