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【ヨーロッパ・ルネサンスと日本】 さて当時のヨーロッパでは、イタリアのフィレンチェでルネッサンス運動が興って、古典への回帰・再生の試行錯誤が始まっていた。 しかしローマカトリック教皇の絶対的権威が及んだスペイン・ポルトガルは、教皇の絶対的権威のもとに、ヒエラルキー階層的組織がいよいよ強まり、デマルカシオン(異教世界二分割論)が発動されることになった。それは大西洋の西側つまりアメリカ側をスペインが、東側のインド・イスラム圏のユーラシア大陸をポルトガルが、教皇境界線によって分割し、それぞれ布教保護権として所有権があたえられた。そうしてイベリヤ両国は大航海時代を展開することになるわけである。 そしてガリレイやコペルニクスから教えられて地球が丸いことを知った、パードレ達(宣教師)の乗った大帆船は望遠鏡と地球儀を持ってアフリカ、インド、香港、マカオ、マニラ経由で東洋へと海のシルクロードの大航海時代を迎える。 一方スペインは太平洋を渡って、アメリカ大陸へ探検航海に出た。それ以前の日本人にとって世界といえば中国(震旦/しんたん)からシルクロードを伝ってインド(天竺/てんじく)へ、その向こうといえばペルシャ(波斯国/はしこく)しか知らなかった時代。 <ザビエルの見た日本> 「水平」思考で異界を見ていた日本人に、鳥瞰思考で地図を作ったヨーロッパの「異人」達が鉄砲をもってやってくるのであるから、その対応にはよほどあわてたに違いない。 いきなり地球儀を見せられた信長の驚きは如何なるものであったか。 フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に上陸以来、異質の文化はキリスト教と共に急速に長崎・大分・山口そして京都へと伝えられた。 しかし当時の権力者たちは一方には本願寺教団、一向宗の宗教共同体をすでに知っていた。その念佛共同体は日本全土を点と点を結んだ。それが武装して、時には領主を襲い、さまざまな型の宗教自治国を作ることさえあった。 このことに加えて権力者たちは、さらに未知の世界から飛来するがごとくやってきた異国の神を警戒し、宗論を開いてはたびたびその内容を審問している。 しかし権力者にとってはキリシタンと、それに付随するヨーロッパ文物の貿易には言いがたい魅力をもった。この宣教師たちがもたらす創造の神ゼウスときらめくプレゼントに、眩しさを感じながら、成り上がって来た戦国武将たちは群がったのである。 こうして一方のスペインは新大陸をめざして、巨大な軍事力で。一方ポルトガルはそれに比べると少し穏便な現地融合作戦をもって、アジア植民地政策が展開されてくる。 大航海の船に乗ってパードレ達がおこなったキリスト教伝導は日本の当時の社会にとってどんな意味を持ったのか。ローマではその東洋伝導について「神の福音か植民地政策か」の聖と俗の大論争があって色んな内部矛盾と対立を起こしながら、大帆船の時代は押し寄せた。いずれにしても日本人にとってはまったくあずかり知らない所で、何の意志確認もなされることなくデマルカシオンという論理によって、ローマ法皇の布教保護権内にはいってしまっていたのである。 まずスペイン、ポルトガル人たちが「神の福音か植民地政策か」、の大論争を引きずって幕を開けた15世紀末の大航海時代を、宣教師と冒険者たちの姿からまず大まかにダイジェストしてみよう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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