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 <キリスト教伝来>

 ザヴィエル Francisuko de Xavier(1506〜1552)はナバル王国ザヴィエル城主の子という名門に生まれた。
 1515年にパリに留学し、聖バルバラの学林に学んだ。1535年イグナチウス・ロヨラに出会って感化を受け、同志七名とイエズス会を結成。37年司祭となる。
 ところが当時、東洋に飛躍的に活動を開始していたポルトガル王ジョアン三世に命ぜられて、教皇代理となって、1542年インドのゴアに渡り、インド、東インド諸島各地に布教。1547年末にマラッカで日本人のヤジロウに会い、日本布教の使命を確信する。
 ポルトガル国王の布教保護権の支配から脱し、多くの反対を乗り越え、アンジロウを水先案内にとしてマラッカを出帆して日本に向かう。その一行にはコスメデ・トーレス、ジョアン・フェルナンデスなどがいた。
一艘のジャンクに乗って鹿児島に渡来した。
ただちに、島津貴久と会見、福昌寺を訪れるなど薩摩滞在すること一年で、仏教徒の妨害を受ける。
 そこで早く京都に上り、国主から日本全土の布教の許可を得ようと思い、平戸・山口を経由して50年1月に京都についた。
 しかし当時の天皇の政治権力が無力なことを知って直接比叡山に布教の許可を得ようと赴いたが、横にいた真言僧から追い払われ、坂本の北村殿という代官を尋ねて京都を退去する。
いったん平戸に帰ってさらに山口の大内義隆に会う。次に豊後府内の大友義鎮(大伴宗麟)の招きを得て熱心に活動した。
   しかしアンジロウを介して知った日本への期待と信頼は思うように行かず、受洗者は滞在二年三カ月の間に1,000人か2,000人と伝えられている。ひとまずインドに帰って、さらに日本を本格的にキリスト教化するためには日本人が尊敬する中国に布教すべきと考えて、日本での布教を参考として中国布教を志した。
1525年、広東港外に至ったが、当時の中国は鎖国状態にあって上陸を許されず、密航の機械を待ったが肺炎にかかり、過労の為に頭髪は雪のごとく体は衰弱してついに倒れた。
 その布教は、キリスト教史上最大と言われている。



1548年

天文17年 (室町)

◇アンジロー、ゴアに行く。3月
 ザヴィエル一旦インドに戻る

1549年

天文18年 (室町)

◎本願寺証如、権僧正に任ぜられる。(1月)
 フランシスコ・ザビエル鹿児島に来て布教する。

1549年

天文18年 (室町)

◎本願寺証如、権僧正に任ぜられる。(1月)
 フランシスコ・ザビエル鹿児島に来て布教する。
7月3日 イエズス会、フランシスコ・ザヴィエル、コチンを発ってマラッカに立ち寄り、鹿児島に上陸日本へ向かう。
コスメ・デ・トーレス(イエズス会パードレ司祭)とジョアン・フェルナンデス(イルマン修道士)それにアンジローを水先案内にして来日。



《ザヴィエルが日本へ来るようになった背景》

 1490年にコロンブスがアメリカの東インド諸島に到達したことをヨーロッパの大航海時代の幕開けとしよう。
この前段階であるルネッサンスRenaissanceは、個人の解放、自然の発見をテーマとして、ギリシャ・ローマの古典文化に回帰復興しようという考え方を軸として興った。
 ダンテやボッカッチョなどが活躍した一三世紀の末にイタリアで初めて起こり、つづいて全ヨーロッパに波及した。
それまでの中世ヨーロッパでは領主によって人々は農奴であり、カトリック教会によって神の奴隷であった。その《二重の奴隷》からの解放を願った芸術家や文学者たちは新しい作風を生み出し、腐敗した教会に清風をもたらそうという気運を引き起こしたのである。 この文芸復興あるいは学芸復興と呼ばれる運動は広く学問・政治・宗教の再生という時代を迎え、神中心の中世文化から、人間中心の近代化への転機の端緒をなした。これは《世界と人間との発見》から《人間と自然との発見》の時代と言えるだろう。 そしてこのルネッサンスは、初めて自然科学というジャンルを見いだした。レオナルド・ダ・ヴィンチのような芸術家が産業革命の先駆的役割も持った。
こうして急速に展開してくるイタリアルネッサンスは工業化と商業化を拡大させ、グーテンベルグ(1400頃〜1463)が発明した金属活字印刷術の力によって、ヨーロッパ全体をひとつの文化・産業圏にしてしまうかのような様相であった。 大資本家たちは国家権力や資本主義経済を生み出して、市民の経済生活のすべてを彼らの利害に従属させてゆくことになる。この資本家たちの資本は投機的に商業を拡大し、土地を買いこんで荒稼ぎを頻繁にして、やがて貴族化してくるのである。 しかしこの豪族になりあがった平民ポポロ・グラッソと政権独占に反対する中小市民ポポロ・ミヌートとの間に反発がおこってくるが、結局専制支配者にそっくり譲り渡してしまうことになる。
結局十六世紀のローマはローマ教皇の特異な勢力圏の一大中心として盛期ルネッサンスは芸術と文学の花盛りになる。オランダの歴史学者ホイジンガJhan Huizinga(1897〜1945)はこのルネッサンスを中世から近代への過渡期であるとみて、『中世の秋』を出版して主張した。今日ではこの見方が基調になっている。
ところがオスマン帝国が興隆しはじめ、そのイスラム文化をもった回教国家がアジア・アフリカそしてヨーロッパに勢力を拡大して十六世紀を再盛期とするようになってくると、イタリアルネッサンスは平民豪族ポポロ・グラッソの政治的経済的地位がぐらつきはじめ、都市生活者の窮乏は急速に農村をまきぞえにして衰亡してゆく。
フィレンツェ生まれの貧しき政治思想家で歴史家・文学者であったマキュアヴェリ Machavelli(1469〜1527)はこの窮乏を神の概念と切り離して、しかも政治倫理でもない救済の君主の出現を期待した『君主論』を著した。しかしその君主はついに現れることなく、イタリアはスペイン・ドイツ・フランスなごの列強に飲み込まれてしまった。
こうしてルネッサンスの三大発明の火薬・羅針盤・活版印を残して終わる。

ルネッサンスの波はネーデルランド、ドイツ、スペイン、フランス、イギリスなどの国にその国独自の民族性や文化に根ざして伝播されるが、そういう事情の中から、封建性の強いドイツでは、中世的な色合いの中にゲルマン人の民族性と思索によって、ヘブライ語やギリシャ語によるキリスト教の純化が行われる。
ドイツ人修道士で、ヴィッテンベルグ大学の神学教授であったマルチン・ルター Marutin Ruther(1483〜1546)は「信仰によってのみ真の救済があるのであって、教会維持のために免罪符を発行している教会」に厳しい批判をして、教会の存在を否定した。
1520年にルターは『キリスト者の自由』を書いて、カルヴィン派もこの宗教改革に続いた。それに呼応するようにドイツ農民戦争(1524〜1525)が起こって、農民は神の前の平等を訴えた。そのうち一揆は過激な破壊行動を取るようになったので、ルターは農民を非難し、逆に富裕市民や諸公側を支持した。これによって農民は《世界と人間との発見》と《人間と自然との発見》の時代を得ることはなくなって、ますます惨めになった。
ルネッサンス宗教改革は中世によって歪曲されたキリスト教神学によって起こった教会の堕落への批判からルネッサンスは始まった。しかしそれは一部の学者の言語学的文献学の範囲を出ることはできず、広く社会の風をつかむまでにはいかなかった。
このルターやカルヴィンの運動はローマンカトリック教会にも反省の機会を与え、それが内部粛正という方向に向いて行く。
カトリック勢力の中心となったスペインでは特に厳正で、異端の排除と粛正は宗教裁判を厳重にし、禁書目録までも定めて異端者の火刑などによる一掃を行った。この精神的統一が絶対主義国家つくりに利用された。こうしてヨーロッパの宗教改革運動は一応の意味役割を終えて、終息してゆく。
このようなルネッサンスの影響を受けてスペインも大きく変貌して行く。建築ではスペイン王室の全盛時代に実現されたものであり、フェリーペ二世(1556〜1598)の時代に厳正なスペインルネッサンス様式が完成して、それがカトリック改革の精神と一致した明るい趣の様式の美術に変わって行った。中国からアラビアを経てもたらされた火薬が実戦に使われるようになると、戦術の変化とともに、イタリアとの戦争や新大陸発見また植民地政策に銃が使用され、イベリア両国はアメリカ・アジアに強大な支配力を持つようになった。そしてそこから得た食料・エネルギー・毛皮や絹製品は市民生活に影響して巨大な富みを得た。しかし市民性と庶民性の乏しい騎士的性格と厳格なカトリック主義の国民性におしつぶされて、宗教改革に反動的な絶対主義に飲み込まれてしまった。しかしイタリアの自然科学や産業革命、それに美術にヒントを得て大きく変貌して行く。
これが当時のヨーロッパのおおまかな背景的事情であって、そこから引き出されて来るイエズス会とザヴィエルの日本行きの事情がつながって行くことを考えてみよう。
このルネッサンスから始まる《世界と人間との発見》から《人間と自然との発見》というヨーロッパ近代化が始まった時代に、単に芸術や文芸のみにとどまらず行われ始めたのが《地理上の発見》という大胆な出来事である。

それは新大陸に向かうヨーロッパが行ったマヤ文明やアジアへの征服とう略奪の正当化である。この行為を《発見》という表現をしているが、その発見された諸民族にとっては貿易という美名の人身売買と資源の侵略であり、布教という精神の略奪であった。
『バテレン追放令』の著者安野眞幸氏によれば、「1605年にセルバンテスが書いた『ドン・キ・ホーテ』に見られる騎士道の深遠な理想や、異教徒である回教徒を討伐するために十一世紀(1096年)から十三世紀の二00年間に七回にわたって聖地エルサレム回復のために十字軍Crusedes が遠征した行為などを考えれば、彼らが云う《布教》とはある理想または信念に基づく集団的な戦闘行為の何物でもない。」つまり商売と布教という名目の略奪だったのであり、「布教には失敗したが、商売は成功した」と云う。
どういうことかと云えば、ポルトガル帆船がアフリカ西海岸から喜望峰を回って、インド洋に出ればもうそこはアラビア商人が活躍する世界であった。ポルトガルはアラビア海の覇権をイスラム教徒と戦った時、イスラム教徒の国マラッカ王国を占領し、アラビア人たちが築いた通商路を奪ってそこにも海洋帝国を作ったのである。それは『ドン・キ・ホーテ』と「十字軍」という「理想または信念に基づく集団的な戦闘行為」の延長上にある、「聖なる伝道」と「発展のための市場開拓」であった。
それが《世界と人間との発見》から《人間と自然との発見》であるとすれば、そのルネッサンスという輝かしいはずの神と権力者の奴隷からの解放が、1510年のマラッカ王国の人達にとっては何だったのか。ポルトガル人にとって市場開拓はイスラム教徒を屈服することはできた。しかしそこではイスラム教徒の徹底排除に逢って《布教》についてはイスラム教徒を改宗させることはできなかった。
この布教の失敗を「日本への逃走の決意」として選んだと見て取ることができよう。そこにザヴィエルが多くのイエズス会の反対を押し切って、しかもローマ教皇の保護圏を犯してまで、日本へ行くことを浮足立つほどの期待をもって、アンジロウとあと二人の日本人から、日本についての知識を得ようとしている気持ちが表れている。

                日本は、シナのすぐ近くに横たわる島である。
                日本人はみな不信者である。そこには回教徒もユデア人もいない。
                克己心が強く、神やその他の自然の事物について、ひじょうに知識をもとめている

                                                  『聖フランシスコ・デ・ザヴィエル書翰抄』アルーペ神父の書翰第20

と云っている。
インド・マラッカ海峡における布教の失敗はよほどザヴィエルを疲れさせ、イスラム教徒を改宗させることができなかったという絶望感が深かったであろう。
そこには使命感というより、安野氏が云う「日本への逃走の決意」と見た方がより正確であろう。

これがザヴィエルが日本に来るようになった背景である。
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