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【戦国時代】 こうして始まったヨーロッパのアジア植民地政策、それに対応する日本。 蓮如によるいわば宗教改革ともいえる念仏教団の始まりと、『お文』に「後生の一大事」といいあらわされた「信」への目覚めによって当時の民衆はどのように生きたか、その宗教社会の生活はヨーロッパより約半世紀先に越前、加賀で萌芽している。 そこへ権力者はキリスト教の受容を始めた。そして「未知の世界と異神との出会い」は激しく当時の民衆をまきこんですゝめられてゆく。 やがて鹿児島、長崎、豊後、山口、京都へと異神は啓蒙される。そして大村領内で始まる強制大量受洗、寺社焼き打ち、法宝物破壊、僧侶民衆への殺戮、強制、追放、集団強制退去・迫害が繰り返された。 これらは更に、信長の宗教政策と相俟って、京の都を軸にして西日本において、展開するがやがて北陸から東国そして東北にまで及ぶ。 次に、政権を握った秀吉、家康のキリスト教政策は、切支丹迫害に転じ、耶蘇教禁制、切支丹禁止令などといわれ、邪宗門改という宗教政策のかたちをとって、今度は佛教を切支丹迫害の手先にして来たことは、周知の通りである。 キリスト教徒はこれらのできごとを「殉教」と呼び。それに対し、佛教徒はどの様に弾圧の手先になったのだろうか。切支丹禁教令以後の幕府政策であった寺社に対する諸法度。また武家諸法度などは、これら一連の出来事を平定する宗教政策であった。 キリスト教伝来→仏教徒受洗・仏教毀犯→ヨーロッパ人による人身売買→日本の海外侵略→禁教。この構造的矛盾がザヴィエルによるキリスト教伝来の1549年(天文18年)から1639年(寛永16年)ポルトガル人の来航禁止(鎖国の完成)までの90年間に行われた訳である。 大量の流血のなかで過ぎた戦国時代の日本史、日本人にとって宗教とは何か。 色分け ◎真宗教団史 ■日本史 ☆ヨーロッパ ◇その他
1535年(天文3年) ローマ教皇の命によって発効されたデマルカシオン(異教世界二分割領有論)の考え方は、スペインとポルトガルに航海・征服・植民・貿易という世俗の事業をも併用してカトリックの布教保護圏を設定してキリスト教の及んでいない南北アメリカ大陸とユーラシア大陸それにオーストラリアを始めとする南太平洋に侵略行為を始めることになる。 なぜこういうことが始まったのか。 これは9世紀から15世紀にかけて教会や修道院の学僧scholasticsの間にあった《一神教的啓示》の権威に立脚する、スコラ哲学に基づいての神学理論が底流にあったからである。 したがってゼウス(Zeus)の恩寵を知らず、造物主ゼウスを信ぜず、しかも背くということは絶対に許されない神と教会に対する冒涜であり背信行為である。 その場合はいかなる弁明も許されず、武力をもって制しても、むしろそれは正当な戦争発動であるという道理が成り立つことになる。 たとえば仏教徒のような無神教は絶対に認められないのである。 こういうことからキリスト教の及んでいない異教世界に対して潜在的にスペインとポルトガルのイベリヤ二国間に帰郷するものとされた。 このデマルカシオン(異教世界二分割領有論)が承認する範囲を両国が軍事的にでもまた精神的にでも征服さえすれば、教皇の権威のもとでその国の植民地になるわけである。 そして教会も「地の果てまでも福音を」というローマン・カトリックの教権が対象相手民族にとっては凄惨な虐殺をともなう侵略的行為として行われることになった。 特に中南米でのスペインの植民地政策は残虐をきわめ、土着の旧文化であるメキシコ高原のアステカ文明・ペルーのインカ文明を破壊し、反抗者の大量虐殺と住民 に対する苛酷な使役は侵略そのものであった。 そして金・銀・砂糖・たばこなどの現地品の収奪貿易によってスペインはヨーロッパのカトリック教会の指導国として、そして世界一の富を誇ることになった。 《コロンブスのアメリカ発見》という言葉には実は大変な侵略の歴史が横たわっている。 さらに航路が大西洋・太平洋に転じられ、1571年にはフィリピン、ルソン島・マニラを占領して精神的には強制洗礼、政治的には軍事力をマニラに集結することになる。 それから17世紀になって、オランダ人グロテウスが『自由海論』を著わしてデマルカシオン異教世界二分割領有論を否定した。 これによって海洋の自由と通商の自由を論じて(『キリシタンの世紀』高瀬弘一郎著p168参考)戦争と平和の法があらわされるまで、この侵略はとめどなく行われる。 その軌跡を略年表で見てみよう。 色分け ■スペイン ■ポルトガル ■ドイツ ■イギリス ☆その他
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